『風の大陸から』第8話

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Description

ラップランドには、いまだに伝統的な衣装に身を包み、トナカイの放牧をして人々がいると話には聞いていた。それは多少の誇張もあって、伝統的な衣装を着て今でもテントに住んでいるわけではない。けれども彼ら彼女らがたくさんのトナカイを放牧して生活しているのは事実だ。山の中の、ヤルマというサーミ人の暮らす集落に来た。
サーミ人はラップランドに住む先住民族である。ここは集落といっても住んでいるのはたった2人のユーハンとエリマリアだけだ。手伝いのバブロや若いサーミ人が毎日のように来るとはいえ彼らは定住ではない。DSC_0921
僕は空いている小屋を使わせてもらった。暖を取るのは当然ストーブ。トイレは屋外。-20℃という寒さだからか、トイレはあまり臭わない。穴を覗(のぞ)くと凍った排泄物が急峻なピラミッドのように下から突き上げていた。電気はあるが水道はなし。氷を溶かして使っているから水は無駄にできない。壁にはサーミ人特有の刺繍が施されたエリマリアの帽子とユーハンの使い込まれたナイフ、ベルトが存在感を放っている。ストーブの上ではトナカイの内臓スープがコトコトと音を立てる。窓の外は雪。周囲にまったく人の気配なし。
一夜明けて1月22日、午前9時。「ヨー、ヨォーッ!」腹の底から響く声が雪原を駆け巡る。白い無精ひげのユーハンと彼を手伝いにやってきた若いサーミ人4人が気迫のこもった声でトナカイを追っていた。僕は囲いの中に入りおずおずと撮影をしている。仕事を手伝う気であったが、まったく手が出せないからだ。彼らはカウボーイならぬレインディア(トナカイ)ボーイ。伝統的な革のベルトとナイフが誰の腰にも下がっている。

 

エリマリアがスノーモービルに跨って餌を撒き始めた。まるで自由自在に動く鉄の馬だ。

近くの町までおよそ70km。足がなければ、ここは陸の孤島といっていい。そこにたった2人で住むユーハンとエリマリア。世界には本当にたくさんの生き方がある。やるかどうかは別として、ここで生きるという選択肢も、アマゾンで暮らしたりアンデスやパタゴニアで生活していくという選択肢も、実は僕らの前にある。ただそれを知らないだけで。選ばないだけで。僕たちの前にはなんと多くの可能性があるのだろう。

 
抱き合って2人と別れた。僕の両腕にすっぽり納まる小柄なエリマリアは故郷の祖母の匂いがした。どうかお元気で。

唸りを上げてジープは坂を下った。ツンとする冷気が鼻を突き、2人の姿があっという白い雪煙に包まれて消えた。

 

 

「風の大陸から」は山口新聞の紙面で連載中です。

山口新聞
http://www.minato-yamaguchi.co.jp/yama/

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