Refugee settlement

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ウガンダの難民取材を終えて日常の生活に戻ってきた。

帰国して間もないはずだが、現地の射すような太陽と砂の臭いは実感として失われ、日本と彼の地のあまりの隔たりに、悲嘆に暮れた人々の眼差しは記憶の中でしおれつつある。

 

僕が足を運んだウガンダ北部の難民居住地。そこにいたのには南スーダンの難民たちだった。みな疲労していた。着の身着のまま逃避してきた人々は、美しい衣装の代わりに不安や不満を纏(まと)い日々を送る。乾季の終わり、乾いた北の大地では水が不足し、水の配給を求め午前4時から女性たちが列を成すが、並んでも手に入らない日もあり、水を巡る争いが起きもする。世界食糧計画(WFP)の配給はあるけれど、「家族5人で1ヶ月にソルガム(モロコシ;コーリャン)がたったの5㎏だよ」と僕に当たる人もいて、食糧は決して十分ではない。教育も毎日が限界点だった。ある学校(Secondaly school)は4000人以上の生徒に対し常勤の教師は27人。使えるテント張りの校舎は6つ。別の場所にあった幼稚園は700人以上の子どもに対し教諭は9人。地面に穴の開いた使用可能なトイレは4つだった。居住地の人口は増え続けている。

「水がないのよ」「石鹸もない」「まともな教育は望めない」「子どもたちの将来が心配なの」

口々に不満をぶつける母親たちに僕は何度も囲まれた。

悲しい現実はそこら中に転がっていた。大統領派、副大統領派、その他の勢力が入り乱れ、私こそ国を平和にすると声高に叫び、市民の犠牲は増え続けている。

カンパラから北西部の街に向かう夜行バスのターミナルで、僕は19歳の青年と話をした。彼も僕と同じ街へ行くようだった。一人で旅をしているのかと訊くのでそうだと答え、彼も同じ答えをした。その後、彼が南スーダンからの難民であることを知った僕は、他の家族はどこにいるのか尋ねた。青年は静かに「だから一人なんだよ。家族はすべて死んだんだ」と言うのだった。“Alone”の単語の意味を僕は改めて知り、ここでは気軽に使ってはいけない言葉なのだと悟った。

ブルンジの友人とはカンパラで再会した。ジャーナリストとして働き、政権に不都合な存在であったことから命を狙われ、ルワンダを経てウガンダに来ていた。命の危機に何度も遭い、幼子を抱えながらの逃避行が現在も続いている。友人の物語は、また別の機会に記そうと思う。

ウガンダ滞在中、僕は何枚も写真を撮った。パシャパシャというシャッター音。高価で軽快なその音は、人々と僕とを絶対的に隔てている。撮影が終われば僕は日本に帰り、豊かな日常で記憶を薄れさせていくだろう。

帰国から1ヶ月。予想通り実感は遠ざかり、脳の記憶とはそんなものだと僕はどこかで自己弁護すらしている。そうして、そのうち本当に忘れていくことを衝動的に恐れ、夜半、俄かに難民の臭いや声音や眼差しをリアルに思い出そうともがく。

この取材の目的は、南スーダンの情勢を紐解くことではない。底辺の声を掬い、虐げられた人々の眼孔から風景を覗いてみることで、この世界を変えていく糸口が見つかりはしないか、それを考えてみたいのだ。何を知り、学び、私たちに何ができ、僕はどう動いていくべきか。

6月20日「世界難民の日」に合わせ、この取材の総括を行っていく。

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