メキシコからグアテマラに入り、エルサルバドルを経てニカラグアへ。
中央アメリカという地域に来て、子どもたちが僕を見つけては手を振り、握手のために手を差し出し、すぐ側まで近寄ってくるようになった。人懐っこさにやられ、しばし自転車を停めては写真を撮ったりにらめっこをしたり。子どもが好きなものだから、外国人の僕を恐れずに近寄ってくれるのがいと嬉しく、幾度も子どもたちと手を交わし、時として僕の方から子どもたちに手を差し出したりもしてきた。
けれども手を差し出す行為が友愛の情ではなく、生きる糧を得るために使われる手段であるなら、僕は自分の対処を考えなければならなかった。
この旅で、初めてその手に出逢ったのはメキシコという国だった。
夕刻、許可をもらったガソリンスタンドの奥まった場所でいつものようにテントを張った。ゴミ捨て場から腐れたオレンジとオイルの混ざったむせ返るような臭気が時々鼻先を掠めたが、風があったのでさほど気にもならなかった。荷をテントの中に運び入れ汗を流すためトイレに行こうとしたとき、一人の少年が近づいてきて僕に掌を見せたのだ。何を見せてくれるのか思わず笑顔で覗き込んだ。はっとして、彼と僕の視線が重なり、瞬間、風景が止まった。少年の手を差し出す行為が物を乞う表現であることに気付いたが、どうしたらいいのか咄嗟に分からず笑顔が固まった。遠くで3,4人の男たちがこちらに視線を這わせているのも分かった。あのハポネス(日本人)はどのような対応をすると思う?試されているのだろうか。薄笑いを浮かべたまま、僕は持っていた飴玉を掌に乗っけて少年と男たちの視線をかわしその場をやり過ごしたのだ。
それ以降、手を差し出してくる子が俄然増えた。
はじめは少額のお金を渡したこともある。食べ物を与えたこともあった。だが1人に渡せば2人寄って来て、2人が次は4人になるのだ。きりがない。そのうち僕はそんな子たちと距離を取るようになった。陰りのある表情で首を振りごめんと思いつつ、どのような対応をしたらいいのか分からなくなっていった。
中米グアテマラ、内戦が終わって12年(2008年時)。隣国エルサルバドル、内戦終結から16年(同)。ニカラグアも内戦は長くホンジュラス、ベリーズは周辺国との軋轢に悩んだ。戦が終わっても日本のような平和には程遠く、中米は多くの地域がいまだに紛争の火種を抱えている。それは埋み火のように一見平穏な市民の日常下で燻り続け、人々の生活と食を絶えることなく煤けさせている。
エルサルバドルは救世主の国という意味だ。内戦がひどかったという事実をうっすらとしか知らない。
首都サンサルバドルの中央市場。雨のそぼ降るその日、すれ違ったトマト売りが腐ったトマトを黒い水溜りに捨てた。するとそれを少年がすかさず拾い脇目も振らずにかぶりついた。僕は衝撃を受けたがその一瞬で風景に小波が立つということはなく、周りの人はトマト売りも靴売りも籠売りも揚げ物屋も散髪屋も数多(あまた)いる客たちも、僕とその子の残像だけを置き去りにして、人々は何事もなかったかのように雨に打たれていた。
別の日、グアテマラ。安い大衆食堂で席に着いていると裸足の中年女性が入ってきて、机の上の残飯をワシッと手で掴み口に放り込んで出て行った。妙に曲がりくねった女性の足指の黄色い爪とセピア色のスカーフが絡み合って頭から拭い去れない。食堂を出ると待ち構えていたように、背の低い老爺と少し離れて二人の兄妹らしき物乞いが手を差し出してきた。小さく首を振って逃げた。ニカラグアのある食堂では女の子とのデートを邪魔された。鼻の下を伸ばして味わい会話していると突然二人組みの少年がやってきて、僕の食べ残したチキンの骨、まだ残っている友人のスープをくれないかと頼んできた。「ほ、骨でええの?」
「はい」
「あの、このご飯食べかけやけど……食べる?」
「スープもください」
日本人の彼女は一人だったら怖かったと思うと感想を述べたが、日本では経験したことのない光景に面食らう日々が続いた。
人々が食えない。とりわけ子どもたちが食えていない。
一日に200万人分もの食が捨てられ、政策と称してなお田畑を荒廃させ、カネにモノをいわせて世界の食糧を買い込み、カネにモノをいわせてまた捨てるということを、僕たちの国は日々こつこつと無感動に流れ作業の如く行っていると聞く。空腹の手を差し出す子が、食糧、それも溢れかえるほどの絢爛な食糧が魔法のようにひょいとゴミへ変わる瞬間を眼にしたら何を思うのだろう。他所から奪った豊かさを弄ぶ人々を憎むか、そんな己の悲運を嘆くのか。それとも知らぬが仏か。
僕に世界を憂う資格はあるだろうか。原因の一端は自分にもあるらしい。それに薄々気付いていながら気付かない振りを続け、何かに怯えて憑かれたようにその落差を作ることに勤しんでいる。
子どもたちのすぐ横を走り過ぎ、何も施さないならせめてこの子たちのことを忘れずにいようといつしか思うようになった。万事を忘れがちだが、それでも僕の浅い記憶の苗床に根を生やしている子たちがいる。
中でも、とりわけニカラグアの小さな港町で出逢った靴磨きの少年の黒い手が、刻印を押されでもしたかのように目蓋から消えない。
はじめは少年から話しかけてきたのだった。靴を磨かせてくれないかと。僕の靴は墨で磨くタイプではなく、またお金がないこともあり断ったが、少年は疲れたように僕の横に座り込んだ。次は僕が彼に水を向けた。
「えっと、靴磨きをしてるの?」
たるんだ顔で間の抜けた質問をした。少年は律儀に頷き、「午前中は二人しか仕事にならなかった。午後、もっと仕事を探さないと」と、まるで大人のようなことを言うのである。日本でいえば小学2年生。その子は5歳から家計を助けるために靴磨きをしていた。すべてに甘えて生きていける僕とは生活の置かれている次元が違う気がした。それがなぜなのか考えようともせず、そのとき不意に自己本位の欲が湧いた。彼に夢を訊いてみたい。明るい色で染まりがちの夢や希望のノートに、この黒い手を持つ少年の一滴がほしいと思った。ぬるま湯に浸かり輪郭のふやけた自分が、幼い身体で世界の不公平にぶつかりながら生きている少年に、悠長なことを訊ねるのは憚られたがどうしても訊いておきたかったのだ、「キミの夢は何ですか?」と。
少年は僕の問いに少し考え、静かに首を振った。それで終わりだった。予想通りだった。
夢は何ですか?
ある意味、これは幸せと同義だ。どちらもその礎に、最低限の安定した「食」がなければ成り立たない。それを支える最低限の安定した「平和」がなければ成り立たないという意味にもおいても。僕には図らずもそれが生まれつき備わっていた。
少年が去っていった薄汚れた路地を見送りながら、靴を磨いてもらえばよかったと僕は悔いた。
メキシコ、中米以降、僕はこのような子らに多く出逢った。自らを稼ぎ手として贅沢の残滓に塗れながら働く子たち。生きる糧を誰かからの善意に頼ることしかできなくなった子たち。ボロ布を纏い裸同然で動けなくなった子たち。剥きだしの朧げな命が道端の日常に転がっていた。
働かなければ生きていけない貧しい国の子どもたちがいて、一方大人になりきれない裕福な国の遊ぶだけの私がいる。
ごめんね、ごめんね。
詫びながらその子たちの横を通り過ぎてきた。精一杯、悲しそうな表情をぶら下げて。だがそれはひとつのポーズでもある。豊かな国から来たものがそうしなくてはならない暗黙の掟。またはせめてもの免罪符。辛そうな表情をすることによって、いくぶん良心の呵責から解放された気になっている。僕は今夜、テントの中でバックから取り出すパンとリンゴを、おそらくためらわずに喰らうはずだ。食えない子たちには施しもせず。
ごめんという言葉のなんという軽さか。偽善という仮面のなんという重さだろう。
その夜はなかなか寝場所を見つけられなかった。ようやく行き着いた薄暗い草地に倒れ込み、少年の黒い手と自らの手を比べた。そして何も考えないようにしながら、僕は味の抜け落ちたパンを口に運んだ。