小さな夢の募金

旅の中で『幸』とは何かを考えてきました。
お金があることが幸せか。欲望を充足させることか、健康で衣食住充ちることか。精神が平穏であることか、自分が何者か知ることだろうか……
人間の数だけ生き方があるように、幸せもまた人それぞれなのかもしれません。

旅を終えて、『幸』とは「いのちの自覚と肯定」にあると僕は考えるようになりました。いまここに生まれてきた意味をつかみ自分の生を肯定できる環境があること、それが幸せの根幹を成すのではないか。より具体的にいえば、“生きていてよかった”と感じられるとき、僕はいのちの自覚と肯定を得ているのだと思います。しかしながら多くの場合、人の幸せを現実的に支えているのは精神や感性や霊魂以前に、日々繰り返される生命をつなぐための「食」そのものであるはずです。
人間は最低限の水と食糧がなければ生きていくことができません。人が生活を続け幸せになるための礎として、「食」がまず最重要のテーマであると感じました。

中米エルサルバドル、真っ黒な手を差し出してきた物乞いをする裸足の少女。メキシコ、ゴミ捨て場の家に住まう5人兄弟。ニカラグア、厳しい目で決して笑わなかった靴磨きの少年。ガイアナ、犬の死骸が浮かぶ水溜りで遊んでいた女の子。ブラジル、立ち並ぶバラック小屋とストリートチルドレンたち。

旅の途上、各地であまたこのような状況を見てきました。だが満足に食べられない子どもたちの視線を“無力な一旅行者”という看板でかわしながら走ってきた自分がいます。どのような対応をすべきか、納得のいく答えは見つけられないまま、結局はそういう子らと距離を保ってきました。極一部の惨状に一時的に顔をしかめてはみても、日本に帰れば飢えることも物乞いに手を差し出されて戸惑うこともなく、いずれは彼ら彼女らを忘れていくであろう“わたし”。
この旅のテーマでもあった「夢集め」。物乞いの少女や靴磨きの少年に夢を尋ねましたが、首を振るだけでした。当然でしょう。その前に今日の「食」をどうするか、生きることのほうが重要だからです。僕の幸せと彼ら彼女らの幸せは土台の部分で異なっていました。それはいのちの自覚と肯定以前に「食」があるかないかの、それだけで、けれども途方もなく大きな違いでした。幸せの土台は生きるということ、「食」にあります。

世界の裸足の少女と靴磨きの少年たちが最低限の「食」を享受でき、いつの日か夢を描き幸せになれる世界を夢見て、ここに“小さな夢の募金”をはじめます。僕の旅1kmにつき1円をしかるべき場所に届けること。この旅は総移動距離32035km。帰国後、32035円を国際NGOである『Save the Children』に寄付いたしました。また、これからの新しい旅でも、1kmにつき1円を集め子どもたちに届けていく予定です。寄付だけでは根本的な解決にはなりませんが、いま自分にできることを僅かながらしていこうと考えています。

“できることからはじめてみる”
それが、食べられない子どもたちの横を通り過ぎてきた僕のひとつの答え。

“小さな夢の募金”の趣旨をご理解いただき、ご協力をお願いいたします。

少年の黒い手

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