『風の大陸から』第27話

『風の大陸から』第27話 Large Image

Description

「20歳の頃に戻ってもう一度ゼロからがんばってみよう。そう思ったんですよね」

深夜の1時を回っていた。彼の言葉はひとつひとつに芯がありゆっくりと僕に届く。言葉にも背中にもがっしりとした男らしさの滲む人だった。

日本特有の熱帯夜も蝉も蚊すらいないドイツの夏。人口60万のデュッセルドルフで僕は愛媛出身の一郎さんに出逢う。

「初めは断ろう思うたんですよ、もうちょっとで僕も旅に出るしね」

ビールを勧めながら、ヨーロッパ全ての国にいくことを当面の目標にしている彼はそう言った。僕はひょんなことから彼に連絡を取り宿泊は可能かというメールを送っていた。彼は僕が自転車で旅をしていること、事前にやりとりをしたメールで好感を得て興味を持ったのだと付け加えた。

その夜、僕は一郎さんの半生を聞いた。

「魚の卸をしとったんですよ。休みとかあってないみたいなもんですわ」

どれだけ稼いでいたかは彼の本意ではないので書かないが、腕時計が日本人の平均年収というような世界に住んでいた人の話は面白かった。それが今、板前の修行中だ。

「昔は失敗してなんぼやくらい思うとったのが、気付いたら俺、守りに入っとる、なりたくなかった大人になってしもうとる。歳とったらできんとかよくいわれますけど、いや40歳なってもできるよって、僕が証明したろうって思ったんですよね」

二つの熱気の谷間を夜風が心細げに通った。

「ある交差点で、後ろから軽自動車が来て僕の横に停まったんですよ。中に家族が乗っていて狭そうでしたけど楽しそうでした。お父さんお母さんはきっとこの日のために少しずつ貯金をしたんやろうなぁ。子どもたちはこの日を心待ちにしてたんやろなぁ。そのとき、間違いなくこの家族の方が僕より幸せやと思うたんですよ」

お金はあったが色味の欠けていた彼の冬の心象風景に、一台の軽自動車が何かを置いて過ぎ去った。彼は大切なものを拾いその交差点で生きる方向を変えた。

一郎さんは程なく仕事を辞し財産を処分して身軽になった後、語学も人脈も経験もゼロの状態でこの街にやってきた。

「今の方が幸せですよ」

答えは分かっていたが、やっぱり僕は訊いてみた。挑戦者にとって挑戦できるとは幸いなのだ。

旅の中で多くの背中に出逢っている。刺激をくれる背中、追いつきたい背中、寄り添いたい背中、そして挑む者の背。

時々は旅に出ながら、一郎さんはトントンと今日もまな板に包丁を当てるだろう。幾万回ものその音が、彼の背中を厚くする。

 

 

 

「風の大陸から」は山口新聞の紙面で連載中です。

山口新聞
http://www.minato-yamaguchi.co.jp/yama/

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

© Copyrights 2024 NISHINORyoo.com

Powered by WordPress · Theme by Satrya