『風の大陸から』第28話 

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Description

エストニア、タリンの街の中央広場では可愛らしいクリスマスマーケットが開かれていた。白い息を吐き楽しく歓談する人々。真ん中に大きな美しいツリー。

僕が彼女に気づいたのは帽子を売る露店の角を曲がったときだった。右手に杖、左手に粗末なカップを持っていた。気温-7℃。素足に汚れた布製の靴。折れそうな細い足首も見えた。カップを差し出す女性の目と異国の風景に浮かれる男の目が合った。何も施さないのを責めもせず、彼女は無表情で重い影を引きずり雑踏に消えていった。

いま僕は広場から歩いて15分ほどのアパートの一室にいる。スヴェレというエストニア人に誘われ、妻のアヌ、娘のリイサと晩ご飯を食べているのだ。パスタや煮込みビーフにポテトサラダ。夫婦はせっせと僕の世話を焼き施しをくれる。

 

物怖じしない好奇心旺盛のリイサを僕は好いた。ちょっかいを出しては笑い転げ走り回る。キャッキャッと響く少女の声。トコトコ駆ける危なっかしい足音。娘を見つめる父母の眼差し。彼女の周りにひときわ光が集まっている。

いつからそうなってしまったのだろうと思う。生まれたときからだったのか。自分から望んでそうなったのか。整った顔立ちをしていた。恋をして、好きな人とキスをしたり抱き合ったりしたことがあるだろうか。感動して泣いたり友とたわいのない喧嘩をしたり、若さや人生を思い切り味わった日々があるだろうか。

明るいリイサを見れば見るほど、脳裏に浮かんでくるのは昼間見た脚のわるい物乞いの女性だった。目が合ったとき、くぼんだ眼孔の奥から静かな眼が僕の内部を見ていた。彼女の視線を受止められず、その静けさと底の知れない闇に怯えて僕はその眼から逃げた。

彼女と僕はおそらく同世代である。窓に映る自分の顔。無数の施しを受けながら施すことを知らないこの顔に、彼女の顔が重なる。

リイサの汗ばんだ手が僕の中指を掴んでいた。どうした?物乞いの人には見せたことのない笑顔で僕は背を屈める。彼女は僕を引っ張って魚の折り紙を得意気に見せた。僕はスヴェレと目を合わせて笑った。向こうの部屋ではデザートを用意するアヌの姿が見える。つらいこともあるだろうけど、それを遥かに上回る楽しいことがこれからたくさんこの子に訪れるだろうな。そして多くの人に愛されて育つだろう。

再び雪が舞い始めている。北緯59度のタリンの街はこれからが冬本番だ。暖かいリイサの家の上にも石畳をこする冷たい杖の上にも雪は平等に積もっていく。しんしんと積もっていく。

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