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Description
I am in Freetown of Sierra Leone. I like this city. Some drivers can give way to another person. When I see like that situations I feel good. And Guinea too, this country’s foods are so good. I love African foods !
I had a lot of experience from Gambia, Guinea Bissau, Guinea to here. However I can’t write everything. It is pity. And I am sorry to my all friends.

10th of Feb, the wind changed. Before wind came from North or North East, but now the wind is coming from South or South West. It might be change the season. The cyclist sensitive to weather.
I road many countries or place,then I have a feeling that I am “Asian”.
In Africa, I heard this word”Welcome to Africa !” at someplace. “This is African foods !” ”Our Africa……”
They have a African soul.
I afraid of Ants. When I was 22years old, I was in Amazon. Then my body injured by them. Some people asked me”Do you have a afraid of wild life like a lion ?”
My answer is that.
At Conakry, I had a lot of help and welcome from great friends in there. I appreciate it very much. Merci and Thanks. I can’t say thank you enough. I had some special cities on my journey, that Conakry is also special city for me. Someday I want to back to there.
I met great friends of Sierra Leonean at border of Guinea and this country. So I have a good staying in Freetown. Now I am trying to interview to someone whom amputated at war. This matter I will write and upload on my website and facebook later.

2月10日。この日、初めて風が変わった。アフリカに入ってから、北もしくは北東からの典型的なハルマッタン(季節風)の風を背に受けて旅を続けていた。これはサハラ砂漠からの吹き降ろしであるが、セネガルから山を越えてギニアに入り、10日目。初めて風が南から吹いてきた。自転車乗りは、常に風や太陽など、天候を気にしている。風には特に敏感である。西アフリカではそろそろ季節が変わりつつある(15日未明、短時間だったが、何ヶ月ぶりかのまとまった雨が降った)。
「ようこそ、この街へ」か「ようこそ、日本へ」か、それとも「ようこそ、アジアへ」か。
遠い外国の旅行者が自分の街を訪れたとき、どの言葉をかけるだろうか。
アフリカでは「Welcome to Africa !」ようこそ、アフリカへ!という言葉をしばしば耳にする。「これがアフリカのご飯さ!」という人も少なくない。「僕らアフリカ人は」という表現も、「このアフリカは」という言い方も、すべてアフリカを意識している。少なくともアジア人より遥かに、アフリカ人は自分たちの大陸を意識しているなぁと感じるのである。
僕はポストカードやお礼の品に、Your Friend of Asia and Japanと書くことがある。僕が世界を旅して、僕はアジア人だと感じることが多々あるからだ。海外でアジア人に出逢うと心が和むこともある。同じアジア人だからということで助けられたことも少なくない。
人間は何も変わらない。私たちは同じ。僕たちの意識に「日本人」と並列して「人類」が加われるといいけれど、その前段階として「アジア」を加えてみてはどうだろうか。
「ようこそアジアへ。ようこそ日本へ」
海外に出て、僕はアジアに誇りを持つようになった。
「チャイニーズ(中国人)!」という声が飛んでくる。
その問いを受け取って、「違う、彼はジャパニーズ、日本人だ。日本と中国は全然別の国だ!」と、友人たちが僕に代わって説明をしてくれる。
中国と日本が別の国だと知らない人は多い。一般的に日本人がこのシエラレオネやギニアがどこにあり、ガンビアとセネガルの位置関係が分からないのと同じように、アフリカの人々にとって日本は遠い国である。中国も韓国も日本も、同じに見えてしまうのは仕方ない。
「でも」と、それらが別々の国だと知る友人の一人は言った。
「中国人と日本人、全然違うよ。中国人はとてもコンサバティブ(保守的)。日本人は(キミみたいに)オープンマインドでフレンドリーでいつもスマイリーでしょ。だからオレたち、日本人好きなんだよ」
日本を好きだよという言葉の中にお世辞が混じっていることは当然気付かなければならないが、僕と出逢って日本のことを好きになってくれる人がいたとしたら、それはとても嬉しいこと。だが、様々な人々への偏見が少なくなる方がより重要だし、それは自分自身のためでもあり、僕はできる範囲でそれを伝えたい。
「ありがとう。でも日本人もたくさんいるよ。中国人も。いい人もいればわるい人もいる。いい人でもときどきわるい心が起こったりもする。まぁ、でも、日本人好きでいてくれて、とても嬉しいよ。ありがとう」
私たちは同じ。中国人だから、日本人だからではない。黒人だから、白人だからではない。枠を外してその人と接すると、本当はとてもフレンドリーな中国人かもしれない。知らぬ間に出来上がっている「枠」を外す作業。Open Mindには、汗(努力、練習)も必要。
様々な場所で現地食をいただく。食も移動するにつれて変わってくる。お米の炊き加減、好みのソース、香辛料の量、野菜の種類。どこの料理もおいしく、どんなに満腹であっても相変わらず断るということがない。
ギニアの山中およびシエラレオネのある集落で、不思議な肉を出された。前者は「ジャブチ」と教えられ、後者は「ポンクピン」。いずれも山や草むらの中にいるという。これが、涙が出るほど美味かった。やわらかく、口の中で熱くやゆるゆるとろけて、そのとろけの中にうまみ成分が凝縮している。香辛料を適度に利かしたピーナッツやキャッサバの葉ソースがそこにかかり、お米と相まって、一日が終わり疲労と安堵が混ざった体にとても染みた。それほど大きくはないらしいが、それらが一体何の動物か僕には分からない。おそらくカピバラのようなげっ歯類ではないかと想像するが、このような正体不明のうまい肉をときどき口にする。ちなみに、中米(国は覚えていない)で食べたイヌ、ブラジルで食べたカメも感動ものの美味さだった。また様々な国の肉は本当に美味いが、パラグアイのチンチュリン(裏メニュー)という内臓の焼肉、ブラジルの各種シュラスコは世界トップレベル。グアテマラのチキン、フランス・ギアナの野鳥も忘れられない。
ビールやお酒は寒い国。肉は熱い国の方が、全体的に美味(あくまでも全体的&僕の好み)。
追記:シエラレオネやギニアあたりではぶっかけご飯が多い。料理の名前を教えてというと「ライス」「ビーンズ」「キャッサバの葉」「魚」など、非常にシンプルである。とてもおいしい。
大量に食べられる、ある程度飲めるというのは、かなりコミュニケーションのツールになると感じる。これは特技かもしれないなとも思う。体を動かしているからか、まだかなり無理がきく。食べるときは果てしなく食べられ、食べないときは一切食べずに動ける。体には時々謝るけれど。お酒は強くはないが、いまのところどこの国の男たちとも渡り合える。海外にいるときにタガを緩めることはほぼないから、旅の中でつぶれたことはない。自分は酒に強いと思っていた青いときは何度も醜態を晒し迷惑をかけたが、強くはないのだと自覚してからつぶれることはなくなった。
ギニアビサウでは飲んだくれの男たちの世話になった。そこでもワインとビール(度数10%)と各種料理をもらったが、やはり大量に飲める、食えるということは武器だった。ギニアでは久しぶりに濃い酒を飲んだが、酒を飲めること、語れることが、大いに仲を深めることに役立った。文化である飲食を存分に楽しめる、いい体をもらったと感謝している。
水を飲んで腹を壊すならば、何度も何度も水を飲んで慣れること。生水を避けるより精神と胃や腹を強くすることの方がよほど効果的な予防法だと思っている。
現地の人と同じ水を飲むのは僕の原則である。井戸ならまだいいが、時に人々は川の水や雨水を飲料水に使っている。そういう場合、水質の問題ではなく、多量に水をもらうことがためらわれる。水は貴重だからだ。ある人がお前はここの水を飲んで大丈夫かと訊いた。よく意味が分からなかったが、あなたも飲んでいるんでしょ、じゃ、問題ないですよと答えた。いや、白人や中国人は、オレらが飲んでいる水を飲むと腹を壊すというからなぁ……というので、私は「日本人」ですよ、まったく問題ありません。そういって、僕は藻の生えた緑色のペットボトルを差し出した。
僕のペットボトルはノルウェーからずっと使っている。その愛用のボトルに、最近、ついに藻が生えはじめた。この暑さで藻は見る見るうちに成長し、自分でもビックリするぐらいに緑色のボトルになった。僕はこれを「自動栄養酸素補給ボトル」と呼んで重宝しているが、見た目は非常に美しくない。さすがのアフリカ人もみなこれには驚いて「お前…こ、これ……(緑色のボトルを手にして声を失う)」「ふっふっふ、私は日本人です!(会話がかみ合っていない)」「ジャポネ…………(日本人って一体)」
僕が日本人のいい宣伝になっているのかよく分からないが、藻が本当に栄養補給になっているのかも不明である。分かるのは、こんな水ばかり飲んでいると、おいしい水は本当にまろやかで甘いということ。
22歳のとき、アマゾンで幕営中、寝込みを蟻に襲われて以来、蟻をとても恐れている。知らない間に蟻の巣の上にテントを張ってしまい、小さな穴から蟻たちが侵入して体中を蟻にたかられた。玉金袋が被害に遭い「ぐぇぇ!」と断末魔の叫びを上げたりした。僕が暗くなってからテントを張りたくないのは、地面の状況がつかめないというのがひとつの理由である。もしそこに蟻の巣の出入り口があった場合、大変なことになる。アフリカに入ってからぞっとするほどの蟻の大群を見ている。そしてこのところ、蟻に足や背を噛まれるという事態が続いている。これがとても痛くて痒みを伴い腫れるのである。蟻は怖い。大きな野生動物より蟻などのような小さな生物が、実は脅威であったりする。
人々から、ライオンなどのような野生動物は怖くないのかとよく質問されることについて、いつも僕が答えること。大型の野生動物はまだ予防できる。もちろん蟻より一番怖いのは人間。
旅に出ていなければ知らなかった音楽や音楽家は多い。
カナダのティム・ネイラー。チリのマウリシオ・インジェルコ。ノルウェーのシリ・ニールセン。ドイツで教えてもらったイマニィ。マケドニア(旧ユーゴ)のトシェ・プロエスキ。セルビア(旧ユーゴ)のマリヤ・セリフォビッチ。イタリアのミーナ。そしてアフリカのアヨとアザ(ともにナイジェリア)。その他、名前を知らないけれど大好きな曲は多数。世界には、日本ではたぶんそんなに知られていないけれど、とてもいいシンガーや曲がたくさんある。そういう人や音を知ることができるというのも旅の醍醐味。日本に帰ってからも、僕は彼ら彼女らの歌声を聞き続けると思う。そしてその度に、それを教えてくれた友人やその国やそのときの季節を思い出すだろう。ボスニアの首都、サラエヴォでは、かつての敵国セルビアの人気歌手、マリヤの曲が流れていた。芸術よ、国境を軽く越えてくれといつも思う。
ギニアの首都、コナクリでテレビでの取材を受けた。取材が行われているというだけで、僕が一体何者なのか分からないのに、ものすごい人だかりができ、取材中なのに次々と人々がツーショットを強引に望んできた。それからは質問攻めに遭って動けなかった。友人が助けてくれてオフィスに非難したが、情報も少なく大きな変化のない日常で人々が何か刺激を求めているのを感じた。
シエラレオネの首都、フリータウンで昨日(4日)の新聞一面に僕の写真が出ていた。路上で休んでいるとこれはお前か?と訊かれ、そうですと答えると、これまたものすごい人だかりで進むことができなかった。人だかりが人を呼び、次々に人々の質問(同じ問い。国籍や旅のこと)を受ける。やはり人々は何かの刺激を求めていると思う。新聞に出て以来、結構な人に呼び止められる。速やかに目的地に行けないということが続いている。ちょっとしたヒーローみたいなのだが、じゃっかん面倒であったり、ちょっと嬉しかったり。
しかし時間が許す限り、僕は丁寧に写真に写り真摯に質問に答えたいと思う。謙虚さを失うことを僕は最も恐れている。それを失うことは、命に関わると考えている。
どこの国にも鉄の箱に乗ったとたん自己中心的になる人がいるが、僕は歩行者や軽・他車両に配慮できないドライバーを好きになれない。逆にそれができる人を僕は信頼し慕う(自転車乗りの中にも歩行者が避けて当然と考える人が少なくない。自転車は歩行者のための道を通らせてもらっているという意識をいつも持っておきたい)。
僕はアフリカの路上では非常なストレスを受けている。身一つで道路に乗っていると、ストレスで体がどんどん削られていく思いがする。どれだけ神経を使っていることか。もちろん何が起こってもそれは自分の責任という意識は持っている。例え、自動車が逆走して事故に遭っても、信号無視であっても、無茶な追い越しであっても、何が起こってもすべて自分の責任。後ろから自転車本体に当ててくる人もいる。
そんな中、シエラレオネの首都、フリータウンではホッとする光景を何度か見ている。譲り合いがあるのである。自分の車両の前に別の車両を入れてあげる(ギニアのコナクリでは皆無)。またはバスが乗降中で停車しているときにクラクションを鳴らさずに待つことができる(同上)。救急車に道を譲ることができる(コナクリは当然、できない国がちらほら)。警察の交通整理に従うことができる(コナクリでは半分がいうことを聞かないため渋滞が悪化する。コナクリは最低)。僕がこの街を好きなのはそういうホッとする運転マナーをときどき見るからでもある。
それと、人がいい(だから運転マナーもまだマシ)。街にゴミがまだ少ない。ご飯がおいしい。路上のお菓子がおいしい。何よりたくさんの友人たちが助けてくれていること。テンキ(ありがとう)。
山口県出身、男、31歳、魚座のA型、自転車野郎、好きな花は紫陽花という僕に、人生最大のモテ期がこの西アフリカで訪れている。女性たちから「好きよ」という大変直接的な告白を多数受けておるのだ。勘違いではない。うははは、ようやく僕もそういう境地になってきたか、それでこそ旅に出た甲斐があるというものだわ、うわははは!
しかし旅人は移動せねばならない。
「すまない、行かないと」というと「え、なぜ?」という。
「旅人は行かなくてはならないのだ。この気持ちを振り切って前に進むのが使命なのだ、愛しい人よ!」
「じゃ、旅をやめればいいじゃん!簡単なことじゃん!私のことキレイって言ってくれたじゃん!ウソだったの?」
「いや、まぁ、そのぅ……」
僕にはひとつ大きな問題があるんだ。実は、カネがない。
そういうと、みな大変あっさり「それはダメね!」
全世界共通で、男の価値はカネで決まるようである。
最近は「好きよ」に加えて「結婚しましょ」という発言を受けている。段々面倒になってきて、とっておきの切り札「カネがない」でかわせば、「じゃ、稼げばいいじゃん!」「……そ、その通り」
この辺りのやり取りは、女性の方が上手である。
最近は「結婚しましょ」ではなく「私のこと愛してる?」という発言を受けている。もう面倒だから「好きだよ」というと「じゃ抱いて!」と切り返してくる。返答に困る僕を見てみんなが笑う。
何枚も何枚も、完全にアフリカ女性の方が上手である。
アフリカ人の恋愛事情が僕には大人すぎてついていけない。
ギニアのコナクリでは路上で出逢った友人宅でお世話になっていた。彼はまだ独身らしく大きな家に一人で住んでいた。ある夜、可愛らしい女の子がやってきた。妻とは紹介しなかったので、その女性が彼女だと分かった。ところがある夜、写真を見ていると彼は言うではないか。「これは妻ね」「……」妻がいたのか、と僕は驚いた。
数日後、今から妻の家に行くというので、あぁあの写真の!というと、いやAnother one(あれとは別の妻ね)と顔色ひとつ変えずに言うのであった。僕は驚愕した。
家では彼女と住み、2人の妻とは別々に住んでいる。彼女はいずれ3人目の妻になるであろう。
その友人は大変誠実で真面目に見えるのだけれど、女の子に出逢うと所構わずキスをしちゃったり、知らない女の子でも抱きついちゃう人であったりする。妻2人に彼女もいるのにである!あぁ、オレには全然理解できんアフリカ人の恋愛事情は。
「第2、第3の彼女なんてギニアでは当たり前だよ。だって、無理だよね、こんなにかわいい人で溢れているのに、一人に絞れっていうのはサ!」と友人は語ったのだが。
こういうのを、異文化というのである。
追記:友人に「日本の男の中には、セカンドワイフに憧れる人もいる」と伝えると、深いため息をついて「いや本当に大変だよ、マジで。セカンドワイフを持つまで俺も分からなかったが、止めた方ががいいと伝えてくれ」と真剣に語った。のくせに、彼はいずれ3人目の妻を持つであろう。
追記2:セネガル、ガンビアでも同様、複数の彼氏彼女は珍しいことではないという。各地で驚愕の恋愛事情を目にし耳にしている。鼻の穴と世界観は確実に広がる。
リベリアの言語は英語のはずなのだが、全然分からない。
リベリアビザ取得のため大使館の人と話をした。でも全然英語の気がしない。Todayがツデイ。2はツゥ。3はトゥリ。Thank youはテンキ。Firstはフェースト。Oldはオッド。Roadがルド。Old roadはオールゥ(オードゥ)。Anythingはエニツィン。Kingtonはキントン。Sper Roadはスポルード。Eat fineはイファイン。単語はかろうじて聞き取れることがあるが、早口(でもないのだろうが)で話されると、もう英語とはまったく別の言語のようである。で、リベリア英語とクレオール語を混ぜて話していたりする(スポルードはクレオール発音)。
シエラレオネも英語が共通語だが、一般的にはクレオール語が話されている。これはブロークン・イングリッシュなのだが、これも理解不能である。時々単語が分かる程度。
発音がアフリカのそれなので、英語なのかクレオール語なのか、それすら分からないことがある。コミュニケーションを言語以外の、例えば表情や演技や絵や雑学(言語で理解するのではなく、予備知識があるので相手の言っていることが分かる)、洞察(その場の状況から相手の言っていることを判断する)など、総合力で行っていることが多いため、言語の力は全然伸びない。英語をもう一度きちんと勉強したい。フランス語も学びたい。
ギニアのコナクリで、シエラレオネのビザを取得するため大使館を訪れた。前回ギニアビサウのビザ取得のとき、ちょっと待てといわれて3時間待った。今回は、ちょっと待てで、なんと5時間である。腹が立ったり、仕方ねぇと思ったり、これは修行になると言い聞かせたり、他の旅人と妙な絆を結んだり。
約束の時間を守れないなら、初めから時間を指定するな、このMr.カマラ(領事の名)め!と思ったりもする。
僕の他に4人、長期旅のライダーがいた。それぞれ違う旅路、国籍の人々だったが、彼らの内の一人は「コナクリの思い出はたった一言、この大使館での“Wait ”」と言った。みんな、ぐったりだった。
ちなみにシエラレオネのビザ取得には、国内からの招待状かホテルの予約状が必要だったが、ビザの許可が下りたのは、ホテルの予約日よりも後の日であった。何のための予約なのだ、このカマラめ!
ギニアのコナクリに着いた最初の夜、午前3時半。隣の家に泥棒が入り捕まった。友人とともに現場に駆けつけると、手足を縛られた男が顔を踏まれて転がっていた。下半身は脱がされ、腿の辺りを皮のバンドで何度も叩きのめされる。頑強な男たちに体を蹴られ大きな石をぶつけられ、ライトに赤い血が浮かび上がる。この街に着くまでの凄まじい疲労に加えてこの出来事で気分が悪くなり僕は引き上げたが、警察に連れて行く明け方まで男たちは犯罪者に制裁を加え続けたのだそうだ。
貧困による犯罪が多いからこそ、あれが彼らなりの犯罪防止と社会秩序の維持の方法だとは分かっていても、日頃は穏やかな人々のあの変わり様は恐ろしかった。
悪業を許さないという社会正義、彼らの正義感。しかしそれだけではない何かが、その制裁にはあると感じられた。おそらく彼らの中の不満や心の不安定さに根ざしたその何かが「泥棒という悪を懲らしめる」という大義を得て、そのまま凶暴性として顔を出したのだろう。わるい言い方をすれば、自分の中にある見えない怒りや不満や苛立ちを、あの泥棒にぶつけて憂さを晴らしたともいえる。大義や特権を得ると、人は概して暴力的になることがある。
一旦発火すれば、燃え出して止まらないアフリカ人の心の奥にある何か。それは一体なんだろうといつも考えている。
シエラレオネの首都、フリータウンの中心部から数キロ、友人宅へ帰る途中だった。大きな交差点を渡ろうとすると、すぐ目の前で大勢の学生たちが大声を上げていた。何かを追いかける者。叫び。棒を握っている者もいる。血走った眼。額に光る汗。黒人特有の体臭が鼻を突いた。その瞬間、急に空から石が降ってきた。必死で自転車と荷物をかばう。拳大や当たったら病院行きになりそうなほどの大きさの石がバラバラと飛んできた。交差点の真ん中からクモの子を散らすように人々は四散した。右からも左からも石が飛び交い路上で砕けた。そこには交通整理の警官が一人いたが多数に無勢で何もできず彼も身を隠すよりほかなかった。何が起きたのかは分からない。約200人の学生たちがお互いに石を投げ合っている。石をよけながら僕も非難をした。恐ろしかった。何かの拍子にその怒りの矛先が自分に向いたときのことを考えた。アフリカの日常に埋もれている熾き火(おきび)のような発火点。それがどこにあるのか、僕にはまだ分からない。
追記:6日の朝も近くの学校で騒ぎがあった。世話になっている家の人が、少年兵のことに少し触れた。僕がこの国に来た目的はその辺りにある。
追記2:凄まじいゴミの川や無数のバラックの上の落日など、撮りたい光景がいくらでもあるが、発火点が定かではない場所では写真を撮ることはしない。
黒人とのダンスはセックスである!あれはもうセックス。服を脱がす前からセックスは始まっているというけれど、あれはもう完全にセックスだった。
ある晩、同世代の警官たちの世話になり、今からミュージカルがある(ダンスと言われていたら断ったかもしれない。その日は疲れていた)というのでついていくと、中学校の校庭のレーザービームが闇を裂くダンス会場に連れて行かれた。ダンスは苦手である。シャンソンやフォルクローレは好きだがダンスミュージックは好みじゃない。でも彼らの好意を無駄にはできず楽しんでいる振りを続けた。中に一人、際立ってダンスの上手い女性がいた。それはもう、ぶっちぎりに上手くてその女性を見ているだけでここに来た意味があるなと思った。プロフェッショナルである。あのケツの振り方、バディーのこなし方、セクスィーな視線などなど。しかし、そのうち恐れていることが起こり始める。その女性と僕が踊ることになるのである。簡単に言ってしまうと、際どいのではなく、あの、当たっちゃってる、ヒェー!という踊りなのである。で、更にいうと、あんなことやこんなことを、服を着たまま行っちゃってる、ヒェー!というような踊りなのである。「美しい女はジロジロと眺めるのがその女性に対する礼儀である」と南米では教えられたが、ここでは触れるのが礼儀なのだ。「誰か代わって!」と眼で訴えながら、僕は一生懸命、彼女に恥をかかさないようにダンスを続けた。お酒も入っていたので、理性の壁が崩壊しないよう何本も何本も杭を打ち込んだ。凄まじい夜だった。
黒人とのダンスはセックスである。
追記:日本でも古代から、踊りの夜は男女の交わりという風習があった。踊りがセックスとつながっているのは世界各地で共通する。
追記2:世界の男は、言語が話せずとも下ネタでつながれる。これは男に生まれて本当によかったと思えることである。一瞬で感情の共有が可能になる。お前も好きだなぁ!で友になる。
この国(シエラレオネ)に長くいるのは内戦(’91~’02)の傷跡を追っているからである。中央図書館にあるUN、特別法廷や真実と和解の委員会(TRC)などの資料に眼を通す。そのうちの犠牲者リスト。名前と死亡場所、何年に何歳でどのように亡くなったかが記載されている。拉致、監禁の後、殺害(killed)。誘拐、暴行の後、死亡。財産を破壊され監禁の後、殺害。強制労働、暴行の後、殺害。コワという少女は、拷問をされた末に亡くなっている。僅か12歳である。98年当時、僕と同い年だった16歳のコロマという少女は、誘拐、監禁の後、死亡している。女性への監禁や暴行や拷問は、当然「性的」な暴力が加えられていたと考えるべきだろう。そして”Limb amputated(手足を切断)”の単語。
昨日(12日)、ようやく腕を切断された少年少女に逢うことができた。失明した女性からも話を聞いた。この国の人々は凄まじい内戦の傷跡を抱えている。おぞましい内容である。表面的な同情や薄っぺらい悲しみの表情やその場を取り繕うだけのお世辞は絶対的に避けた。こんな辛い記憶を思い出させてごめんねという、日本人的な I’m sorry も言ってはならないと思った。自己紹介と取材の理由を伝えた後は、ただ話を訊いて、彼ら彼女らの腕や眼に触れ写真を撮り、肌に触れてさよならとありがとうを言った。昨日(12日)は時間の関係で4人。下は13歳から上は20歳まで。まだ取材を予定している。この国は僕の大きなテーマだ。
右腕を山刀(マチェーテ)で切断された少女(18歳)に今でも恨みや復讐の感情はあるか訊いた。
「恨み?めちゃくちゃある。腕があればできることがいくらでもある。ないから、できないことが山ほどある。恋愛も。もしも私の腕を切ったやつが目の前にいたら、そいつを殺してやる」
銃撃を受けて右腕を失った少年(18歳)は「許すことはできる。でも忘れることはできない。僕にはここ(右肩から下)にいつも戦争のシンボル(腕の切断)があるから」と言った。
こんな悲劇が溢れるほどあるのに、世界のどこかで今日も戦争がつくりだされている。つくるのも、とめるのも、人間。