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Description
この日、暑さが異常だった。気温自体は高くはないのに、僕は暑さではじめて動けなくなってしまっていた。
どうしたというのだろう。暑い場所を暑い季節や時刻に走るのを身上としているのに……。コートジボアールの太陽が強いのか。それとも湿度が高いからだろうか。
日陰で休みを取った。暑いから休むというのは僕には珍しいことである。しかし動けなかった。首筋から肩にかけてと眼の奥に痛みがあった。体調を崩す予兆だった。
体調を壊しつつある場合、二つの治療方法がある。ひとつは十分に休養を取ること。そしてもうひとつは、逆に体を動かし続けること。もちろん様子を見ながらだが、体を動かすことで身体の機能を回復させるということが人間にはできる。これまでも多くこの方法で体調を整えてきている僕は、この日もその方法を取った。
熱があるかもしれないと額に手を当てたが平熱のようだった。ただ肩から腕にかけてと背中も熱を持っており、首筋から肩にかけてと眼の奥の痛みがじわりと増しているように感じられた。
夕刻になり、僕は友人を得て、彼の家の玄関先にテントを張らせてもらった。大切に持っていたポカリスウェットの粉末を、この夜、初めて使い、マラリア予防薬のメファキンを一錠内服した。
4月5日、翌朝、心配した熱は治まっており体調もわるくなかった。マラリアではなかったのだろうか。今日動けるだけ動いて、明後日には大都市アビジャンを抜けよう。少しくらいの体調不良なら、体を動かすことで治していける。この日は曇りだったが僕にはとても暑く感じられ、というより、体全体が熱を持ち、首筋、眼の奥の痛みも続いていた。
夜。僕は建設現場の作業員が泊まる長屋の中にテントを張らせてもらい、そこで一夜を明かした。体温は昨夜と同じ微熱だが、首筋と眼の奥、関節の痛みがある。暑さにやられたのでも風邪でもない。この病状はマラリアだと、僕は既に気付いていた。
だが奇妙なことがひとつあった。
僕は南米で熱帯熱マラリアを経験し、それがどんなものか痛いほど知っている。焼けるような灼熱期と凍りつくほどの悪寒期が繰り返しにやってくるのだ。しかし、今回の症状には、その恐ろしい悪寒期が全くなかったのである。最高体温も40.2℃まで。37℃台から40℃の間を体温は上がったり下がったりを続けていた。
熱帯熱マラリアは恐ろしいほどの悪寒期と高温期が交互にやってくる。体温は35℃から42℃まで推移し、それも48時間や72時間周期ではなく、結構頻繁に、不定期に、である。
いまの症状は、体温の上下の触れ幅は3℃と小さく、悪寒期は全くなく、ふらつく感はあるが、動くことができる。
以上のことから、僕はこれは熱帯熱(悪性)マラリアではないと判断した。その他のマラリアなら重症化や死に至る可能性は低い。だからまだ動けるのだとも思った。熱帯熱マラリアであれば絶対に動くことができないからである。これはマラリアには違いないが、三日熱か四日熱か卵形か、いずれかの変形系だと推測をつけたのである。これが大きな過ちの元となった。
熱帯熱ではないと判断した僕はいくぶん安心し、動けるうちに病院にいき早めに手を打とうと考えた。
6日翌朝、熱は37.6℃と下がってはおらず、今日は休んだ方がいいと判断した。テント内で寝ていたが気分が優れず強引に吐いた。吐けば楽になると思ったが、体の気だるさは掃(はら)えなかった。体温はこの日何度か40℃に達したが、やはり悪寒は全くなく、動けないということもなかった。
作業員が病院に連れて行ってくれるというので、それまで待つことにした。夕刻、僕らは村の診療所に向かって歩いた。草むらで虫が鳴き、気温は涼しかったが、僕一人だけが尋常ではない汗をかいていた。診療所は開いてはおらず、別の診療所がある場所へまた移動した。前を歩く2人の男に遅れないよう細い土の道を僕は必死でついていった。左右から体を刺してくる平行脈の草花の葉。徘徊する3匹の犬。幾重にも重なる蛙の鳴き声。ぼんやりとした村の灯り。それらはリアルさを欠き、どこか遠いところで起きている現象のようだった。脳が半透明の膜に包まれフワフワと浮いていた。既に闇は落ちていて、時おりムッとする草の臭いが鼻をついた。
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記憶は、突然そこで終わっている。ここですぐに倒れたのか、まだ歩いていたのか、それすら分からない。ICU(集中治療室)で覚醒するまで、その間、僕の記憶は一切ない。
後から聞いた話では、ガーナからの出稼ぎの現場作業員が僕をタクシーに乗せて町の診療所へ連れて行き、そこで付き添ってくれたが、設備や薬の整っていないそこではどうすることもできず、次の日、アビジャンの国立大学病院に運ばれるがそこでも手の施しようがなく、結局一番設備の整った私立の病院に搬送されたのだという。
このとき問題になったのがお金である。アフリカでは、お金がない患者を病院側が扱うことはない。意識がない身元不明の人間は支払い能力がないため、どんなに命に危険が迫っていても手当てをされることはなくそのままほったらかしにされてしまう。酷だがそれが現実だ。僕も、大使館の人が駆けつけICUに運び込まれるまで、町の診療所で1日放置されている。大使館員が来たとき、僕は廊下に放り出されたままのような状態であったらしい。その間に、病状は急速に悪化したと思われる。
一時的に大使館が身元引受人(保証人)になってくれたこと、支払いを待ってもらえたこと、ICUに空きがあったことなど様々なことがつながって、僕はそこでようやく治療を開始してもらえたのだった。
熱帯熱マラリアは発症後、5日以内に適切な処置を行わなければ死に至る可能性が大きくなる。僕が発病したのは4月4日。ICUに運ばれたのが5日後の8日、17時頃であった。
僕のパスポートが見つからなかったら、大使館の人が駆けつけて交渉をしてくれなかったら、何より作業員たちが僕を診療所に連れて行き大使館に連絡を取ってくれなかったら、僕の一生は簡単に終わっていた。いま生きていること、そのことは、すべての人に感謝の他ない。
生と死は隣り合わせである。僕は助かったが、今回はどちらに転んでもおかしくはなかった。こちら側に再び戻ってきたそこに、意識不明だった僕の意思は介在していない。となると、生と死を分かつ稜線には、「私」を越えた何かがありそうな気配がする。僕はなぜ生かされたのか。役割があるのか。いのちをどのように使うべきか。よしんば何もなくとも、自分のために、再考しなければならない。
一度でも危険な目に遭えばそれは絶対的な失敗である(命に関わる)と思い、これまで治安やキャンプ地や事故に関しては重々注意を払ってきたし妥協もしなかったが、マラリアをはじめ病虫害対策には僕の現状認識に大きな誤りがあった。姉の住む、アフリカ最大の中継地ベナンを目指し、そこまで一気に行こうと逸(はや)る気持ちもあったのか、自分を客観的に見つめる眼を失っていた。自分がマラリアで倒れることなど、正直想像しなかった。
防げたはずのものを予防できなかったのは、僕の心に、慢心や過信というものがあったからである。それらを削ぎ落とそうと旅を続けているつもりだったが、僕はまた振り出しに戻ってしまった。
4月4日のマラリア発症から退院する4月14日までの11日間は、この僕に何か大切なことを教えてくれている。それを拾い、再び前に進もうと思う。
旅はいつも予想しない流れの中にある。それは抗えない河の流れに浮かぶ、青い一葉に似ている。
追記:今回、僕が判断を誤った理由のひとつに、以前と比較し症状がとても軽かったということがあげられる。特に悪寒期がなかった理由については、南米でのマラリア罹患により僕の体内に免疫ができていたためではないかというのが大使館医務官の見解だった。
医務官が連絡を受け町の診療所に到着したとき、僕の「意識はなく、白い眼を向いていて、自発呼吸ができておらず、生存回復は難しい」と彼に思わせるほど重症であったらしい。医務官は遺体搬送手続きに入っていたと聞いた。アフリカから日本への遺体搬送費用は約1000万円。
また撮影された写真のデータから後日分かったことは、診療所へ歩いていた6日夜、僕は自力でテントに戻りそのまま寝たらしいということと、翌日7日の午前10時までは、カメラで撮影ができるほどの意識はあったということである。その日、どういう行動を取ったのか、意識を失ったのがテント内だったのか路上であったのかなどについては分からない。上述したように記憶は6日夜から失われている。
リベリアからの報告で、僕は「最近心が穏やかではないことがある」と書いた。いま考えれば、僕の精神に小波(さざなみ)が立ち、見えない不安が募っていたのは、マラリアに対する恐れだったのではないかと思う。
いま、マラリアの後遺症もしくは治療薬の副作用により視界に難があり、文字などの細かいものを見たり書いたり、PCなどを扱うことが難しい。検査や治療はまだ終わってはおらず、完治するかどうかは不明。脳や内蔵にいまのところ問題は見つかっていない。
[経緯]
4月4日:マラリア発症。
5日:体調回復、熱も下がり150km移動。夜、建設現場にテント泊。症状軽度。
6日:微熱があり休養。夕方、町の診療所へ向かう途中から症状が悪化、記憶が失われる。
7日:意識を失う(時間帯は不明)。作業員らが僕を病院へ連れて行き付き添う。
8日:日本大使館に連絡が行き、医務官が病院へ駆けつける。国立大学病院へ搬送。後、設備の整った私立病院のICUに運ばれ治療開始。重症で呼吸器を装着、治療薬キニマックスを投与。
9日:時おり手を握り締めるなどの反応が出てくる。
10日:午後、意識回復。夜、医務官と話す。
11日:ICUで姉と再会。一般病棟へ移動。食欲回復。
14日:退院。
23日:一時帰国

