Testimony of Genocide

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Description

[ Case 1 ]

ルワンダの首都、キガリの中心部から北東の谷を越えた向こうの丘はギソジと呼ばれ、中心部の洗練された街並みとは趣を異にする。路上に布を広げ野菜をひさぐ女性たち、押し寄せてくるバイクタクシーの群れ、走り回る子どもたちの歓声や喧騒をすり抜け道なりに進むと、トタン屋根と泥壁のバラックで山肌が埋め尽くされた南斜面の麓にキガリの虐殺記念館が現れる。

1994年4月、ルワンダという東アフリカの小国でジェノサイド(種族根絶を目的とした大量虐殺)が発生した。フツ族によるツチ族根絶のためのそれは、100日間で当時の国民のほぼ一割に当たる80万人以上が殺害されるという結果をもたらした。この虐殺の特異な点は、同じ村や町に住んでいた隣人(フツ)が、主にマチェーテ(山刀)やマス(釘を打ちつけた棍棒)や鍬(くわ)などで隣人だった人々(ツチ)を組織的に殺戮したことである。
いくつかのテーマを持ちながら、3年間、僕はこの旅を続けている。その中で最も大きな主題は「戦争と平和に関する考察」であり、とりわけ西アフリカのシエラレオネと東アフリカのルワンダは、ヨーロッパ・アフリカを通じて最大のテーマの国であった。なぜ殺戮は起こるのか、どのようにすれば人は簡単に人を殺せるようになるのか、紛争を防ぐための方法はあるのか、僕たちにできることは何か。

記念館前庭のベンチに座っているのはガイドのボヌールである。長身の痩躯、落ち着いた物腰の、一目で「ツチ」と思われる風貌をしている。先ほどまで晴れ間が覗いていたが灰色の雲が全天を覆った。当時の状況を語る、それはまるで、彼の心内を表しているかのようだった。

ボヌール・パシフィケ(Bonheur Pacifique-27歳)の場合 虐殺生存者

「私は1988年にルワンダ南西部のチャンググという街で生まれました。家族は8人でした。両親と姉が3人、次に兄、そして私、下に妹が1人いました。当時、私は6歳でした。
いま、私の国ルワンダでは、ツチやフツといった民族はありません。私たちは「ルワンダ人」でひとつです。もともとそんなものはなかったのです。ただお前はどちらかと問われれば、私は生存者ですと答えます。
ジェノサイドが始まったのは1994年ですが、覚えている限りその数年前にはもうラジオや新聞、雑誌などでツチ迫害のプロパガンダがはじまっていました。ラジオでの放送は何度も何度も聞きました。「ゴキブリがキミの隣に隠れてる。さぁ、見つけ出して今すぐ駆除しよう!」そんな放送が日常に溢れていました。ゴキブリのほかに、蛇や寄生虫というような呼ばれ方もしていました。
そんな放送を聴いてはいましたが悪い予感を抱いたことはありません。まだ小さかったですから、何が起ころうとしているか何が進行中なのか分かりませんでした。両親は何度も危険な状況に直面しており、だから父と母は何が起こりつつあるのか予感はしていたはずです。しかし子どもの前では恐れることも反対に気勢を上げる(戦う)こともできなかった。ジェノサイドが始まったとき、その前に何が起こり何が準備されていたか、なぜ両親が子どもに言えなかったのかを理解しました。

4月7日にキガリでジェノサイドが始まり、一気にルワンダ全土に広がっていきました。私の街では数日後、おそらく9日か10日にジェノサイドが始まったと思います。
インテラハムウェ(フツ族過激派民兵)や知っている隣人たちが襲ってきました。私は母に連れられ知り合いのフツの家に隠れました。小さな村の小さな家です。助けてくれたフツの女性がいるのです。穀物を入れる大きなズタ袋に入れられベッドの下に押し込まれました。窓の外を武器を持ったインテラハムウェや近所の人が通っていくのが見えました。
バラバラに隠れたそのときから、母や兄妹たちには逢っていません。生き残ったのは父と私だけです。祖父母も叔父も叔母も従兄弟たちもみな殺されました。

その後、女性の家も危なくなってきたので、日中は茂みに隠れました。トウモロコシ畑と竹、そのほかの樹々が茂っている場所です。そこにずっと隠れていました。夜になるとフツの女性、マリヤナという名ですが、彼女が食べるものを持ってきてくれました。トウモロコシやイモのようなものです。地面に埋まったバナナなども食べました。畑ではバナナを発行させてお酒(ウルワグワと呼ばれる)を作るために地中にバナナを埋めるのですが、それらを手で掘って食べていました。夜には人目につかないよう彼女の家に戻りベッドの下に隠れるのです。そして早朝には再びバナナやトウモロコシ畑に隠れる、そんな日々でした。
家族がバラバラになって逃げた理由は私には分かりません。一人でもその方が助かる可能性があったと両親は考えたのかもしれません。

そこからはまた別の家に隠れました。しばらくそこに居ましたが、安全のため次はまた茂みに移動しました。それぞれ何日間いたかなど、詳しいことは覚えていません。

ツチは日常の中で、「お前らはゴキブリだ」「人間じゃない」という言葉を受けて育ちました。ですから中には「私は人間じゃないんだ」という意識を持ってしまう人もいました。何度も何度もそのように言われるとそう思い込んでしまうものなのです。そういう人は生きることを簡単に諦めて彼らに殺されていきました。

こんなこともありました。私はそのとき自分たちのいた町の隣の丘に隠れていました。インテラハムウェたちは僕らを探していた。母や祖父母や叔父や叔母や姉も兄も妹も全員殺したのに、父と私の死体だけ見つかっていなかったからです。
私はその時ある小屋に隠れていました。インテラハムウェはその小屋近くまで来ていました。しばらくしてその集団が急に騒がしくなったのです。夜でよく分からず、私は父が捕らえられたのだと思いました。しかしそれは別の地域から逃げてきた男性でした。彼はインテラハムウェに「自分はフツだ」と言い張りました。「ならばツチを見つけ出して殺せ」と彼は命じられ、小屋に入ってきました。そして隠れている私と目が合ったのです。だが彼は何も言わずそのまま外に出ていきました。彼は私を殺すことができたのにそれをしなかった。「この家には誰もいない」と外で彼が言っているのが聞こえました。
5分ほどしてあるフツの男がその集団に合流しましたが、男は私と目が合ったツチの男性のことを知っていました。何が起こったか想像できますか。男性はその場ですぐさま彼らに切られて殺されました。

誰かが殺されている瞬間を直接見たことはありませんが、殺された直後なら何度も見ました。まだ息を微かにしているという。それはあまりにも重いものです。
人や自分が襲われているときに何を感じていたかなど答えることはできません。何度も言いましたが、襲われているものは通常の状態ではないのです。常に死という危険に直面している、身をさらしている。すべてが通常よりも早く、精神は膨れ上がります。何が起こっているのか冷静に考えられない。まともな精神状態ではないのです。

学校に再び通ったのは翌年の9月からです。学校ではジェノサイドについては一切何も語られませんでした。教師は何も言いませんでした。教会でさえもジェノサイドには沈黙を貫きました。まるでジェノサイドの期間だけ空白が空いたように、ジェノサイド後は、殺されそうになった人も殺しに加担した人も一緒に教会で祈るのです。
これは現在でも変わりません。教会でも多くは語られない。国のカリキュラムに学校でジェノサイドの歴史を教えることはないのです。ただおそらく来年からはじめて国と協力して平和構築の学びが始まると思います。もちろんそれ以外では、子どもたちはここを訪れジェノサイドのことを学んでいきますが。

フランスがジェノサイドに加担していたというのは事実だと思います。彼らはインテラハムウェを指導しました。どのように殺すか、トレーニングをした。国交は一時断絶しましたが、いまは回復しています。フランスのサルコジ大統領もこの記念館を訪れました。

いま、あるドキュメンタリーを製作するつもりで、近いうちチャンググに行きます。ジェノサイドがテーマではなく、私を助けてくれたフツの女性、マリヤナに焦点を当てたドキュメンタリーです。ジェノサイドの間、ツチを匿うということはとても勇気がいりました。本当に本当に勇気のいることです。ツチを殺さなかった人や殺しに消極的だった人やそれに同意しなかった人は、みな殺されていきました。ツチを助けているということが知れたなら、必ず殺された。それを承知で助けてくれたのです。ツチを助けることが自殺行為であったなか、命を張って私を助けてくれた彼女はあの地域の英雄です。

ジェノサイドの原因は分断です。人々の間に分断を生むネガティブな教育とそのプロパガンダです。ツチは人間ではない。ゴキブリであり蛇でありフツに害をもたらすもの。殺られる前に殺るしかない。
植民地時代から続く悪質な政治(リーダーシップ)によってそれらの言葉が肥大し社会や人々の間に分断や分裂が生まれ、それらは人の生き方や精神を変えていく。そういう小さなステップがジェノサイドを引き起こすのです。
ジェノサイドやあらゆる紛争を防ぎ、平和を構築するためには、教育が最も重要だと私は思います。
「フツ」に対して恨みはありません。私たちはともに未来を創っていかなければならないのです。

毎日というわけではありませんが、ときどき神に祈ります。神と会話をするのではありません。会話というものではなく、祈りとは言葉にならないものです。
いまでもときどき母や家族を思い出します。しかし思い出しはしても、想像の中で母と会話をすることはありません。祈るだけです。殺されていった母や家族のために、ただ祈るだけです」(1月6日 ルワンダ、キガリ)

 

[ Case 2 ]

“1994年のことである。ルワンダの「ニャマタ」という地域の丘で、ツチ系住民およそ5万9千人のうち約5万人もが、マチェーテ(なた)を持ったフツ系の兵士や隣人たちによって虐殺された。この虐殺は4月11日(月)午前11時に始まり、5月14日午後2時まで続き、その間毎日欠かさず、午前9時半から午後4時の間に行われたのである (注1)”

キガリから南方に35km。いくつもの丘を越えアカゲラ川を渡り、うっそうと茂るパピルス群を横目にユーカリの森を抜けると、ニャマタという小さな町に差し掛かる。地方都市にありがちなこれといった特色のないメインストリートの両脇には、小ぢんまりとした店が連なり、その狭間にたくさんの物売りと自転車タクシーと暇をもてあます酒飲みたちが町の活気を支えている。
真っ青な空の下、鮮やかな黄色い花を全身に纏ったイダボの樹を目印にメインストリートを西に折れて赤土の道を少し歩くと、白い柵に囲まれたレンガ造りの建物が現れる。ジェノサイドの時、十字架の下で殺戮が行われたニャマタの教会である。
2015年1月から2月初頭にかけて僕はこの地域に何度も足を運んだ。キガリからニャマタに至る、カンゼンゼやキブンゴ、ンタラマやカユンバやカナジの丘は、証言集に記載された地図によって僕の頭に入っており、パピルスの湿地が血で赤黒く染まったという光景や、ユーカリの森で逃げ惑った人々の最期の呻きなどを思い浮かべながら重い足取りでニャマタに通ったのである。
天気のよい空気の乾いた朝だった。手榴弾で破壊された教会の入り口前にアリス・ムカドゥリンダが静かに座っている。穏やかな目をしたこの女性はかしこまる僕を気遣い優しい笑顔で腕を組んだ。直後、僕の身体はわずかにこわばった。彼女の右手首から先は失く、体中に切り刻まれた痕が走っていた。

アリス・ムカドゥリンダ(Alice Mukadurinda-45歳)の場合 虐殺生存者

「私に話を聴きたい理由は分かりました。世界が平和になるようにと祈り、あなたと同じ気持ちで私も質問に答えます。
ジェノサイドが起こった1994年、私は25歳で、夫や家族たちとンタラマの丘に住んでいました。家族は全員で32人で、夫と私の間にはまだ幼い娘がいました。ジェノサイド後、生き残ったのは6人で、26人は殺されました。父も母も娘もいまはいません。生き残った6人もほとんどが私のように身体の一部を失っています。1959年以降(注2)、ツチとフツの関係は特に悪化していきました。(61年にルワンダ初の議会選挙で勝利した)フツの政権はツチ迫害の政策をはじめていましたから。
私の両親は59年よりも前に、飢餓や旱魃から逃れるため北部からブゲセラに移ってきました。その頃はまだ開墾はされておらず、そこらじゅう茂みだらけで、ツェツェバエを退治することからはじめたといいます
1988年、政府の方針により私は公立学校に通えなくなりました。その頃からすでにプロパガンダは始まっていて、「ツチを殺せ」というフレーズをラジオでも聴きましたし、また町の人々の間でも煽っている光景を見たりしました。その当時はラジオが私たちの情報のすべてでしたが、それらを耳にし目の当たりにすると何か悪いことが起こりそうな予感がして、とても恐ろしくなったものです。

4月7日にキガリでジェノサイドが始まると、私たち家族はすぐに家を離れバナナ畑やユーカリの森や低木の生い茂った藪へと逃げました。その後、私たちはンタラマの教会へ避難しましたが危険を感じ、ニャマタの教会へと逃げてきましたが、ここも安全ではありませんでした。そのため、アカゲラ川一帯に広がるパピルスの湿地帯に隠れたのです。逃げている最中、銃弾などをそれぞれに避けているうちに夫とはぐれてしまいました。

私は娘を抱いて湿地帯に隠れていました。湿地ですから一日中水に浸かってじっとしていました。インテラハムウェや兵士やたくさんの人が違う時間帯に湿地にやってきては人々を切っていきました。インテラハムウェは別の地域から来ていましたが、襲う人の中にはたくさんの知った顔がありました。近所や隣に住んでいた人たちでした。
彼らは歌を歌ったり、隊列を組んで横に並び、しらみつぶしに進んだり、パピルスを刈り取ったりしてツチ狩りを行っていきました。

4月29日、私は娘を抱いたまま隠れているところを見つかってしまいました。
彼らは「なぜお前は“ツチ”なんだ?」と言い、私は「神がそのようにお創りになったから」と答えました。
「俺たちは、お前らを、社会をよくするために殺すよう言われている」
娘は、私の目の前でマチェーテでバラバラにされました。恐ろしい光景でした。
その後すぐに私はマチェーテで手首を落とされ、頭や体中を切り付けられて気を失い湿地に倒れました。私はもうほとんど死んでいました。まるで動かない木のように。男たちは私が死んだと思い去っていきました。
どれくらい気を失っていたのか、何時間か何日かそれすら分かりませんでしたが、私はまだ生きていました。

夫とはぐれてから別行動でしたが、夫もパピルスの茂みのどこかに隠れていました。夜は殺戮が行われないので、夫は湿地の死体を見つけては陸に上がり地面を掘っては死体を埋めるという行為を繰り返していましたが、そのときに夫は手首を失った私を見つけてくれたのです。
手首が切られていようと食べ物がなかろうと、太陽が上っている間は湿地から出ることはできませんでした。それは命を失うことでした。5月の中旬にRPF(ルワンダ愛国戦線 Revolutionary Patriotic Front)がニャマタを制圧し、兵士は私を湿地帯から連れ出してニャマタの病院へ運んでくれたのです。

ジェノサイドは悪魔が持ってきます。悪魔がフツの心に入っていき、あのジェノサイドが起こったのです。フツや殺人者に対して恨みの感情はありません。赦しています。いま私たちは、同じ町で隣同士として共に暮らしています。
ジェノサイドや戦争を防ぐために、ひとつは祈りが大切ではないでしょうか。祈りは、善いことと悪いことを私たちに教えてくれるから。平和な世界をつくるためには若い世代の教育が最重要だと思います。歴史を教え、何が起こったかを示し、彼らのために明るい、よりよい未来を準備することです。ルワンダ人の悪い心に、神が奇跡をもたらしてくれることを心から望んでいます。
私はプロテスタントです。毎日祈ります。娘はフランソワーズという名でした。私たちはフアニィと呼んでいました。思い出さない日はありません。赦すことはできても忘れることはできないのです」 (2月3日 ルワンダ、ニャマタ)

注1:『隣人が殺人者に変わる時』はじめにより。ジャン・ハッツフェルド著、かもがわ出版。僕が見てきた中で最も具体性のある質の高いジェノサイドの証言集である。被害者編と加害者編、再び同じ地で暮らすことになった双方の証言(2015年刊行予定)の3冊がある。

注2:最後のツチの王であるムタラ・ルダヒグワが死去。フツの小作農がツチに対して反乱、虐殺を起こし、結果数十万人のツチが難民となり出国。ニャマタでは63年に、フツ政権のルワンダ政府軍が最初のツチへの虐殺を始めたが、各地でツチへの殺戮、迫害は続いていた。

補足1:娘を殺害されたとき、僕は、どのように切られたのか、その詳細を聞かせてほしいといった。すると通訳(キニヤルワンダ語を英語に)が、切られたんだよ、分かるだろ、バラバラにされたんだと少し強めの口調で遮った。そんな質問をするなよという目をしていた。取材は葛藤の日々だった。

補足2:ルワンダはフツが84%、ツチが15%、残り1%がトゥワという構成(前述の著作の資料より)だが、ニャマタ地域ではツチとフツの人口はほぼ伯仲していた。なお、ルワンダはアフリカで最も人口密度の高い国である。

 

[ Case 3 ]

サージ・ルウィガンバ(Serge Rwigamba-33歳)の場合 虐殺生存者

「あのとき、俺はキガリのキヨブに住んでいた。家族は約70人。知ってると思うがアフリカの家族は大きいんだ。もちろん、ひとつの家に住んでいたわけじゃない。ブゲセラやブタレなど他の町でも暮らしていた。ジェノサイド後、27人が生き延び、残りはみんな殺された。小さな規模の家族でいえば、両親と姉、兄、そして俺の5人で、そのうち父と兄はもうこの世にはいない。

6日にハビャリマナ(フツ系のルワンダ大統領)の飛行機が着陸間際に撃墜された。そして翌日、キガリでジェノサイドがはじまった。
フツの集団が武器を持ち家を囲んで投石を始め出した。家にいては危険だった。アンチ・ツチ(反ツチ)のテーマソングを歌いながら石を投げるんだ。彼らの顔を見た。お互いに知っているんだよ。同じ地区で一緒に育ってきた仲間だったんだ。
10日早朝、地区の小さな礼拝堂に家族で避難した。父と俺と、家族全員で移動した。人通りの少ない時間帯を狙った。俺たちが行ったときにはまださほど人は多くなかったが、だんだん増えていき、21日までには小さな礼拝堂に150人くらいはいたと思う。近隣のツチはほとんどそこに避難していた。

そのときまで、少なくとも教会は攻撃されなかった。教会は祈りの場だ。これまでの経験からここなら安全だと人々は信じていた。本当は教会といえども必ずしも安全とはいえなかったが、別々に分かれているより、みなでまとまり一緒にいようとしたんだ。
そうだ。ニャマタやンタラマのように教会でさえも襲われた。実際、21日にその教会は襲われる。だからはじめに俺は、10日から21日まで礼拝堂にいたと言ったんだ。
なぜツチの人々がそこに集まっているのを知りながらフツの兵士やインテラハムウェが見逃していたと思う?別々に隠れているのを殺るより、一ヶ所に集まってくれた方が容易に殺しやすいからだ。

21日に兵士やインテラハムウェや若い青年たちによって攻撃がはじまった。実を言うとその数日前、キガリの市長がツチの人数を調べるため礼拝堂を訪れていた。情報を上層部に伝えるためだ。“ツチ族根絶”は、政府の政策だったからだ。
市長が去るときに何人かの人が「なぜ出て行くんです。なぜこの事態を止めようとしない。あなたなら私たちを救うことができるはずだ」と言うと、市長は「私には関係のないことだ」とだけ答え礼拝堂を後にした。会話はそれで終わった。
礼拝堂には2人の神父がいた。一人は白人でもう一人は地元の人間だった。白人はよく分からないが、たぶんベルギー人だろう。他でも多くがそうだったから。彼らは門戸を開放し俺らを置き去りにして逃げていった。
市長が来てから2日後、礼拝堂は襲われた。そのとき俺はよく眠ることができなくて、見張りの男と鉄の門扉越しに外を見ていた。朝の7時頃だった。やつらが来るのが見えたんだ。銃を持って叫んでいた。俺は急いで礼拝堂の入り口に走り大声で伝えた。
「やつらが来た!」
中では人々が座っていたりまだ眠っていたり食事をしていたりしていた。
20人の兵士とインテラハムウェ、若い男らと隣人たち。やつらは礼拝堂を取り囲み、兵士たちは柵を乗り越え内部に侵入してきた。チャペルは一応、門や壁はあったが、裏手はバナナの畑などもあって中に入るのは難しいことではなかった。
みなひどいパニックに陥った。周りは包囲され、武器もなく、逃げることも戦うこともできなかった。何をするにも遅すぎた。襲う者も襲われる者も、お互いにそれぞれのことを知っていた。
ジェノサイドの初期、キガリ市内では殺人は一気には行われなかった。地方や田舎は違っただろう。だが少なくとも市内はそうだった。子どもと大人を分けたんだ。正確には男たちと、子どもと女性を分けた。礼拝堂にいた男たちは一ヶ所に集められミニバスに乗せられどこかへと連れて行かれた。メーカーは分からない、とても古いバスだった。それが父と兄との最後の別れだった。どこでどのように殺されたのか誰も知らない。
母と姉と俺は別の場所に集められ、女性と子どもたちは市内高台にあるセントファミリア教会(中央カトリック教会)まで歩かされた。もちろん、ツチを殺すために。
虐殺は始めに男たちから、次に女性と子どもという順番だったんだ。その場ですぐに女性や子どもを殺さなかったは、このジェノサイドがきちんとした計画の下で行われていたからだ。今日はここまで、明日はここまで「殺す」という、そういうきちんとした計画だった。

そこには俺たちと同じような別々の場所から集められた200から300人の人々がいた。実を言うとその中にはフツも混じっていた。ツチの軍隊RPFがキガリに近づきつつあり、それを恐れてフツもそこに避難してきていたからだ。教会内には、だからツチとフツが混ざっていたんだ。そのことが俺の命が存(ながら)えたひとつの理由でもある。すぐにはツチとフツが分からないからね。食料は赤十字が配ってくれた。トウモロコシの粉やビスケットのようなものだ。だが、それはとても足りず、みな空腹だった。ジェノサイドのあった3ヶ月間、飢餓で死んだ人は多くいた。

この教会には世界各地からのジャーナリスト、カメラマン、赤十字、国連軍が集まっていたため、他のところよりは虐殺のスピードは遅くなった。しかし逆に言うと、それらの人々がいながらにして、ジェノサイドは滞りなく行われたんだ。
6月17日、フツの兵士はフツとツチを分けていった。IDカードと、何より住人同士はお互いを知っていたから。俺は母や姉と一緒に殺される側に分けられた。
地方ではマチェーテがよく使われたが、市内ではほとんどが銃を使用した。若いやつらに銃を渡し少し練習をさせれば、やつらはまるで映画のように人を殺していったよ。殺人を楽しんでいた。人を殺すことをね。
殺される側に分けられた人は前に出されて撃たれていった。俺はすごい人の群れの中に埋もれかろうじて死を免れたんだ。この日、この教会で、200人以上が殺された。
どんな気持ちで何を考えていたか答えることは難しい。恐怖でそれどころじゃない。殺されそうになってるんだ。

7月4日、キガリがRPFによって没落した。そして母と姉と俺は助かった。
RPFが教会にやってきたときのことを覚えている。記念館内部にある写真、あとで案内するが、その写真が撮られたとき、俺はその場にいたんだ。撮ったのはどこかの国のジャーナリストだった。俺は教会の入り口付近にいた。あのときが、俺が「助かった」と思えた瞬間だ。

ジェノサイドの前のプロパガンダは、もちろん何度も聞いた。通りや街中を両親と歩いていても、人々はひどい言葉をぶつけてきた。幼かったから何が起ころうとしているのかよく分からなかったが、大人たちはみな感じていたと思う。ツチへの暴力や殺人はずっと以前からあったんだ。
ジェノサイドは最も恐ろしい殺戮だ。その中でも悲惨なのは、母の見ている前で子どもを壁に打ち付けて殺したり、家族の前で女性を性的に暴行していたぶり殺すことだろう。

学校には2年後の96年に復学した。2001年にセカンダリー・スクールを卒業し、2年前、大学を卒業した。専攻は国際関係学だった。
あの教会の神父たちだが、白人はヨーロッパに帰り、もう一人はいまバチカンにいる。バチカンで保護されている。俺たちを売った司祭なのにだ。それがローマ・カトリックというものだ。宗教に紛争を止める力があるか、俺にはなんとも言えない。
ジェノサイドの原因は動物的本能ではないよ。単純に言うが、ジェノサイドはとても恐ろしい殺戮だ。それは動物を見れば分かる。動物はそんなことを絶対にしないから。それはとても巧妙に組織だって行われた。政府の計画や助けがなければ、ジェノサイドは起こり得なかった。つまり、悪質な政府やリーダーが原因だといっていい。彼らが分断や分裂を生み出したんだ。
家族を殺したやつらに、復讐できるならそうしたいと考えるのは人間の普通の感情だと思う。もちろん、いまの俺にそんな考えはないがね。あれから20年、月日は経ったよ。
ジェノサイドやあらゆる紛争を防ぐためには教育しかないだろう。単純なことだ。何が起こったか凄惨な殺戮の歴史を教え、平和構築のための教育をすることだ。国際的に他の国にもこの経験を教えていく必要がある。どんなに普通のノーマルな人間でも、教育次第で殺人者へと変わってしまうものなんだ」 (1月6日 ルワンダ、キガリ)

 

[ Case 4 ]

ディエウドゥン・ナギリウルントゥ(Dieudonne Nagiriwuruntu-29歳)の場合 虐殺生存者

「ジェノサイド当時、僕は9歳だった。キガリのレメラという地区に住んでいた。
僕はツチでもフツでもない。分かるかい。そんなものはないんだよ。ツチやフツというのは、ベルギーの植民地政策によってつくられたものなんだ、支配をやりやすくするためにね。あの呼び方は社会階級(ソーシャルクラス)の区分けであって人種じゃないんだ。牛を10頭以上持っている裕福な者をツチといい、それ未満をフツと呼んだ。それだけなんだ(※)。

事が起こったのは4月7日だった。6日に大統領の乗った飛行機が撃墜された。誰がやったのかはいまだに謎のままだ。しかしそれを合図のようにして、ジェノサイドが始まった。僕の家族は3週間、自宅で動かないようにしていた。まだ田舎よりも都市部の方が安全だったんだ。人が多かったし、この家の人間はツチかフツか、みんながみんな知っているわけじゃなかったから。
ジェノサイドの何年も前からツチの人や家が襲われたりということが起こっていた。襲われた人間がどこに消えたのか誰もわからない。はじまったときに気付いたんだ。そうか、あれはジェノサイドの前触れだったんだと。
その頃にはもうインテラハムウェは勢力を持っていた。彼らは道を封鎖し踊っていた。そこは誰も通れなかった。90年代初めから少しずつ緊張感は増していた。そのとき僕は9歳だったが、何かが起こりそうだと嫌な予感を感じていた。

メディアのプロパガンダは絶大だったよ。当時、ラジオは最も影響力があった。みなで家に集まり、村やブッシュでも聞いていた。「ゴキブリを殺せ」と言っていた。
ジェノサイドがはじまってから3週間後、RPF(ルワンダ愛国戦線:ツチ系の反政府軍)がキガリに近づいていた。RPFは僕たちに安全のためナショナル(アマホロ)スタジアムに行けと言った。そこが他より安全だったのは国連軍が駐留していたからだ。彼らははじめ僕たちの受け入れに同意しなかったけれども、RPFが来てからは受け入れた。とても多くの人がそこに避難した。中にはフツも混じっていた。フツはRPFを恐れていたからね。国連軍は主にガーナとバングラデシュ人で、200から250人ほどだったと思う。とにかくそれほど多くじゃない。ルワンダ紛争のとき、最も多いときで国内に2700人いた国連軍は、ジェノサイドのとき700人にまで減らされていたんだ。
そこではビスケットのようなものを食べていた。兄弟が持ってきてくれた。母が一番下の子をスタジアムで出産してひどく弱っていたから。ただ、みなひどく空腹だった。
国連軍がいても殺戮は続いたよ。時折、急襲による銃弾や爆弾でスタジアムの中であっても人が死んでいった。ツチだけでなく、フツも。大部分はツチだったけれどね。

直接人が殺される瞬間を自分の目で見たことはない。でも、最もひどい殺し方なら知っている。女性をレイプしてその後にマチェーテで切って殺していく。レイプをして、終わったら、槍を女性器から突っ込んで頭まで突き刺す。
だが殺戮は何がひどいとかはない。すべての殺戮はあまりにひどい。ひどすぎる。

94年の9月から学校に再び通った。教師は一言もそれについて語らなかった。教会でも一緒だった。その期間だけ何もなかったかのように、誰もそれに触れず誰もそれについて謝りもしなかった。ジェノサイド以前のように、ツチとフツとの深い溝は続いていた。
ジェノサイドの原因は、分断だけだ。憎しみから生まれる分断。例えば君はアジア人だ。君の見た目は俺たちとは違う。君は僕たちの家族じゃない、同じ民族じゃない、同じ人種じゃない、同じ国民じゃない。だから君とは友だちになれない。これが分断なんだ。こういった分断が少しずつ大きくなってジェノサイドは起こるんだ。ジェノサイドの主な原因はそれだよ。
それを防ぐには、まず、教育だと思う。ジェノサイドの前、学校で教師は子どもたちを分けた。お前はフツ、お前はツチ。ツチなら試験に合格しても大学や要職につくことは許されない。これらは憎しみから生まれた。そういう教育を改めていくこと。どういう教育をしていくか、それしかないんだ」 (1月6日 ルワンダ、キガリ)

※もともとルワンダ周辺地域一体は、古くより狩猟民族であったトゥワが居住しており、10世紀までに農耕民族のフツ、後13世紀までに牧畜民族のツチが北方より侵入しツチの王国を築いたと考えられていたが、現在ではフツとツチはもともと同じ民族であったのが、農耕を生業とするか牧畜を生業とするかで、それぞれをフツ、ツチと呼ぶようになったという説が有力である。つまり生活の糧を得る手段が違うだけで、他は同じ言語、生活様式、文化を持つ、同一の由来を持つ同属集団であったと考えられている。取材を受けたディエウドゥンは牛10頭以上の保有者をツチと呼んだというが、取材中には15頭以上という人や、実際にツチであったが両親は牛を1頭も持っていなかったという人もいた。しかしフツとツチはベルギー統治下で明確に分断が進められ、当時のヨーロッパの主流であった人種思想と宗教的考えにより、ツチへの優遇政策とフツ、トゥワへの差別的待遇が徹底的に行われた。分かりやすくいえばフツのツチへの嫌悪は、このあたりに端を発している。なお当時、ルワンダの宗教界(主にカトリック)もフツ政権を支持し、多くの宗教者がジェノサイドに加担した。

 

[ Case 5 ]

ンダイサバ・ロベルト(Ndayisaba Robert-31歳)の場合 虐殺生存者

「僕の家族は11人でンタラマの丘に住んでいた。父と母、7人の兄と僕、下に妹が一人いた。そのとき僕は12歳だった。
ツチ迫害のラジオ放送は、何度も村で聞きいていた。ジェノサイド以前のツチとフツの関係はよくなくて、学校でも先生に「ツチは立て」といわれ、他の子どもと差別をされたりした。そういうことは恐ろしかったけれど、でも何が起ころうとしているのか、僕たち子どもに詳しいことは分からなかった。

ンタラマでは4月11日にジェノサイドが始まった。僕はたくさんの人に襲われ何度も命を失いかけた。襲われるというのは、マチェーテ(山刀)やクラブ(棍棒)を持って、人が走って追いかけてくるんだ。近所に住んでいた知っている人が僕を襲ってきた。しかしその都度、神が奇跡をつかわされ、神のご加護によって僕は逃げ延びることができたんだ。
襲われると、夢中で走ってブッシュ(茂み)の中に逃げ込む。そしてじっと息を潜めている。

日中はずっと殺しが続いた。だけど17時頃にはその日の殺戮は終わるんだ。なぜなら夜は「仕事」をしないから。まるで公務員の仕事のようだった。夜になるとブッシュから這い出して、食べ物と、もっと安全な隠れ場所を探して走った。食べ物は、料理をする時間などありはしないから、見つけたらそれが木の葉や草や生のバナナやトウモロコシやキャッサバであってもそのままかじった。
けれども本当は、食べることは二の次なんだ。襲われるものにとって第一の仕事は、逃げることだよ。逃げて逃げて逃げることなんだ。
人々が、しかも近所に住んでいた人が人を殺している光景を何度も見た。村役場の人も、町や県や国の重要な地位についている人も、みな真面目に政府の方針に従い、忠実に「仕事」をこなしていった。
ブッシュで隠れていると、殺人者たちは、時おり木を刈り、または燃やして人々をブッシュから追い出して襲った。そんな煙が上がっているのを僕は隠れているブッシュから見ていた。

飢餓で死んでいく人もいた。日中は動けないんだ。動けば殺されるから。夜になって動き始めるが、フツの人たちは略奪をしていたから、ほとんどの家に食べ物は残ってはいなかった。
隠れているとき、襲われているときに、何を感じ考えていたか、僕には答えようがない。何を見、聞き、嗅ぎ、味わい、触っていたか。恐怖で頭は空っぽになる。何も感じられないんだ。例えば地面に開いた便所の下に隠れていても、恐怖に襲われれば人は何も感じなくなる。そうして逃げ続けたが、神のお陰で僕は助かった。

学校には翌年の9月から再び通い始めた。先生たちは、僕たちを慰め、謝り、この国の再建の道を切り拓いていかなければならないと言った。けれど、ジェノサイドについて、先生たちは誰も語らなかった。国の教育カリキュラムに、ジェノサイドについてどのように教えるべきか、示されていなかったからだ。カリキュラムがないと先生たちは何も教えることができない。しかし彼らは、何も言わないのが最善だと考えていたのだとも思う。

最も恐ろしい殺害は……人間が人間を襲うことだ。想像してみてほしい。とりわけ隣人が隣人を襲うことは最も恐ろしい。
ブッシュに逃げたとき、僕は家族と一緒ではなかった。みなバラバラになって一人で逃げた。そのときから、父や母や家族と逢っていない。ジェノサイドが終わって1週間後、兄と妹と再会したが、生き残ったのはその3人だけだった。

ジェノサイドは、ルワンダのすべてを止めたんだ。それは悪質な政府と統率者と民族集団から起こったのだと思う。それを防ぐために重要なのは、ルワンダでひとつにまとまることだろう。分裂を生まない教育をすること。分裂がなければ僕たちはひとつのルワンダ人だったんだ。僕たちはひとつの言語を話すひとつの国民で、ひとつの国としてまとまる必要がある。恨みはない。完全にない。ルワンダは、ひとつにまとまらないといけないから。

母や家族を思い出すことは何度もある。とりわけ追悼式のある4月にはよく思い出す。僕はパンコテスト派(通訳はプロテスタントの一派だと話した)の信者だから毎週日曜日には教会に行き祈るんだ。でも死んでいった人たちと(イメージの中でも)会話はしないよ。もっとも襲われることがなければ、そんなこともなかっただろうけれど」 (1月26日、ルワンダ ニャマタ)

 

[ Case6 ]

ホビマナ・アルファンセの視線はいつもユーカリの木立に向いていた。Tシャツ右胸の穴、安物の緑のサンダル、後頭部の傷。とても静かな、呟くようなか細い声。風に掻き消されてしまう前に、その言葉たちを僕は素早くノートに書き留めていく。

キガリから南方に25km。ンタラマの丘にある小さなレンガ造りの教会はいくつか壁に穴が開いている。あの日、銃やマチェーテを持った兵士や隣人はこの穴からなだれ込んだ。神聖な祈りの場に開いた小さな破滅の穴は瞬時に巨大化し人々を飲み込んだ。クリスチャンがクリスチャンを、隣人が隣人を、マチェーテで襲い殺戮した。
板を置いただけの粗末な教会の座席は死体の山で埋まった。数日で5000人以上が殺害され、死体はそのまま放置され悪臭を放った。教会から20mほど離れた調理場は、虐殺当時のままの姿で残されている。散乱しているゴミのような衣類から悲鳴が聞える。隣の学習小屋の壁にはべったりとした黒い染み。血の名残だ。子どもたちはここで頭を壁に打ち付けられて死んでいった。
ユーカリの木の下で僕はホビマナの話を聞いている。掻き消えそうな言葉とは対極にある絶対に風化しないあの日のこと。時間という風でも消し去れず、記憶は深く重く彼の日常を圧迫する。

ホビマナ・アルファンセ(Hobimana Alphanse-26歳)の場合 虐殺生存者

「僕の家族は8人でした。両親と2人の姉、僕、下に3人の妹です。母と姉、妹2人はジェノサイドのときに亡くなり、父は3ヶ月に渡る逃亡で心身を壊し、それが元でジェノサイドの後に亡くなりました。いま家族で生きているのは、姉と妹と僕の3人です。当時僕は6歳でした。
ここンタラマでは、それほど多くはありませんでしたがツチとフツとの間で結婚をしたりもしていました。しかし政府の教育政策によって段々と関係は悪化していきました。通りを歩いていると罵倒され石を投げられるようになっていきました。ある日父は「戦争が始まる、すぐに」と言い、僕はそのことをひどく恐れました。

あの日のことはいまでも覚えています。
ンタラマでは4月11日にジェノサイドが始まりました。その数日前、市長が僕の家を訪れ、何も起こりはしないから家でじっとしているようにと言いました。この地域のツチの家をそうやって周り、殺しが行いやすくするようにとの準備でした。しかし、僕たち家族や他の人々もそんな言葉を信じることはできず、7日にキガリで虐殺がはじまると、みな教会に避難したのです。家にいると危険でした。

教会の敷地は多くの人で溢れていました。
そこが襲われたのは4月15日の昼頃でした。
インテラハムウェ(フツ族過激派民兵)は2台のバスで、地元の人は歩いて教会にやってきました。みな銃やマチェーテを持ち歌を歌っていました。隣に住んでいた人や近所の住人など、知っている人が何人もいました。カンゼンゼのような隣の丘の人も混じっていました。彼らは笑いもせず泣きもせず、ただ感情の失せた顔をしていました。

最初に彼らは手榴弾と銃を使いました。そして、まだ生きているもの、死に切れないものをマチェーテで殺していきました。いたるところで悲鳴が上がっていました。とてもたくさんの人が地面に倒れていきました。とてもとても、たくさんの人が死んでいった。
僕はそのとき教会の後ろの入り口近くに母と一緒にいました。爆弾が投げられ、壁に穴が開き、武器を持った人が教会内に入ってきたとき、母は早く外に出なさいと叫び、僕らは後ろの入り口から逃げようとしました。

母は赤ん坊を抱いていましたが、目の前で幼い僕の妹は壁に打ち付けられて死に、母もその場で殺されました。僕は戸の前で、マチェーテで後頭部を切られました。血が噴出し気を失って僕はその場に倒れました。
気づいたとき、殺戮はまだ終わってはいませんでした。僕の近くに何人か来ましたが、出血が激しかったため死んでいると思われ、そのまま死んだふりを続けました。
夜になってからそこを抜け出し、後はずっと7月中旬まで逃げ続けました。逃げて逃げて逃げ続けたのです。

ジェノサイドは政府や政権に原因があると思います。貧困ではないと思います。確かに略奪もありましたし、生活のための基盤(インフラ)が整っていないことも問題ではありましたが、しかしそれだけではジェノサイドは起こらないと思うのです。政府によって教育が歪になると、人々は人間性を失っていくのです。未来の鍵は教育にあると思います。
恨みという感情はありません。僕の中で赦しは終わっています。
いまはここ(ンタラマの虐殺記念館)で働いて、少しのお金を妹の学資に宛ててやりたいと思っています。僕はドライバーになりたいけれど、現実があってそれはなかなか難しい。
ここ(虐殺記念館)にいると死んでいった家族や友人たちといつも一緒にいることができます。母はとても優しくて子どもたちを愛していた。毎日、母を思います」 (1月27日 ルワンダ、ンタラマ)

 

[ Case 7 ]

明かり窓から届く外界の光が遠くに感じられる。空気はひんやりと冷たく僅かに黴(かび)くさかった。ンタラマの教会と同じく凄まじい数の骨たちから伝わってくるのは、怨恨や絶望や悲壮などではなく、ただ諦観に似た底の見えない静寂である。

2日で5000人以上が犠牲となったニャマタの教会。その裏手には、集団墓地と遺体や遺骨を安置した地下室があり、1月27日、僕は一人でそこに入っていた。天の高い、澄み渡った美しい日だった。
平日の午前中であり来訪者は他に誰もおらず、喧騒や暑さとは無縁の地下室の空間。上を見ても横を見ても遺体と頭蓋骨と骨の山に囲まれて、僕は心で語りかける。答えてくれる人は誰もいないのに。

早く地上に上がりたいという気持ちもあるにはあったが、それ以上に、使命感のような何かの感情が僕を長くここに留まらせた。気持ち悪いとも怖いとも思わなかったのは、彼ら彼女らが他人には見えないからだ。死者たちの眼差しに倣い、僕も彼らのみてきたこと、みているものを、みようとする。それが、なぜかとても大切なことのように思えるのだ。

9時55分、地下室から明るくてあたたかな地上に這い出てきた。
教会表の玄関に続くブロックの道の上を、一人の女性が箒を持って歩いている。恰幅のよい意志の強いムカムソニ。僕はいまから彼女の証言を聞く。彼女の見てきた風景を覗けば、死者たちの眼差しの意味を少しは知れるだろうか。

取材は格段問題もなく進められたが、証言の最後に彼女はあるひとつの問いを投げかける。それは僕個人に向けられたものではなく、世界の端に追いやられた人々の、「正義」という不正義がまかりとおるこの世界に向けられた怒りである。

ムカムソニ・セラフィン(Muka musoni Seraphine-57歳)の場合 虐殺生存者

「私はムハンガ(キガリから西に約40km)という町に家族で住んでいたの。夫と6人の子どもたちの8人だった。私だけが生き残り、残りは全員殺されたわ。
90年頃から、特メディアでのプロパガンダは激しくなっていった。「ゴキブリ」「やつらは人間じゃない」「ツチは悪、ツチは敵」「やつらを殺せ」そんな放送が四六時中流れていた。町でも学校でもそんな言葉が蔓延していた。
テレビは役所に一台あるだけで、ほかは誰も持っていなかった。カングラという新聞もあったけれど、そのときのルワンダではラジオが主な情報源だった。RTLMというラジオ放送。ヘイトスピーチの言葉はラジオから人々に浸透していったのよ。あの放送を聴くと本当に身が縮こまったわ。いまなら分かる。あれはジェノサイドの準備だったと。
ジェノサイドの前には大きな街から偉い人たちがやってきてムハンガの町の人間を指導した。夜な夜な人を集めてミーティングをするの。主に若い人たちをね。ツチがどんなに恐ろしいか、だから殺さなければいけないのだと。そしてそういう人たちを統率した。
94年までに、何かが起こるのを恐れ、難民となって周辺国に逃げていった人もいる。でも私たちには遠くてできなかった。

ルワンダでジェノサイドが始まったのは4月7日だった。同じくらいの日でムハンガでも隣人が私たちを殺し始めた。逃げたわ。武器はないの。逃げることしかできないの。家族はニャルサンゲ(カトリック系)の教会に行った。そこの司祭は兵士の侵入を拒み、できる限り私たちを守ろうとしてくれた。けれども情勢はどんどん危なくなっていき、教会でもいつ襲われるか分からない状況だった。それでまだ殺戮が行われていないという情報のあったムシュバテのコミューン(自治共同体)に移動することになった。
でもそこに着いたとき、私たちは自治体の首長に入ることを拒否された。私たちはまた移動しなければならなかった。
幹線道路や小さな田舎道はとても危険だった。兵士やインテラハムウェが道を封鎖し、通行するすべての人を検問していたから。移動の最中に襲われて死んでいく人は後を絶たなかった。
カプガイ(カトリック系の教会)に着いたとき、そこにはたくさんの人が避難していた。私たちもそこに加わった。

ある日、ついにそこも襲われた。兵士たちが銃を乱射し、人々はマチェーテで切りかかってきた。たくさんの人が殺しているのを見たわ。多くの人が死んていくのも見た。マチェーテ、クラブ、槍。そういった武器で人々は殺されていったわ。女性は暴行を受け、串刺しにされたりバラバラにされていった。
私は逃げ惑う人の群れの中にいた。銃弾で次々に人々は倒れていき、私はその下敷きになった。次は私が死ぬ番だと思った。死体の下で息を潜めていた。銃声が何度も聞えた。
私が助かったのは奇跡だわ。

でもこれらは私のトラウマ。今でも頭痛に悩まされてる。特にジェノサイドの起こった4月にはひどくなるの。
恨みはないわ。赦さなければ、心は重いまま自由になれない。もちろん、悲しいわよ。すべての家族や友人を失ったのよ。
でも、それでも、赦していかなくてはならないわ。もう一度、この国を再建する必要があるから。分断ではなく、別々の民族ではなく、ルワンダとして、ひとつのルワンダとしてまとまっていかなくてはならないから。だから、赦ししかないの。

ジェノサイドの原因は政治よ。わるい政治とそのリーダー。ずっと以前は、私たち何の問題もなく一緒に暮らしていたんだから。政府の政策でこうなってしまった。
ルワンダが平和を取り戻すためには、私は赦すこと、受け入れることが大切だと思う。人々を分けない、差別しない。一緒にルワンダを造っていく、同じルワンダ人だから。
あれから20年しか経っていないけれど、このことを知らない人は増えている。ルワンダ人でもすべての人がジェノサイドのことを知っているわけではないわ。だからここ(虐殺記念館)に来て見てほしい。何があったのか、それを知ってほしいのよ。
私はパンテコート(ルワンダのプロテスタントだと通訳は言った)、日曜日は必ずミサに行くわ。私、聖歌隊のメンバーなの。赦しを、いつも神に祈るわ。

家族のことは毎日思い出すわ。でもどんなに思い出しても、死んだ人が戻ってくることはないのよね。

ねぇ。何で私に話を聞いたのか、もう一度理由を教えてちょうだい。そうね。子どもたちのために平和な世界を創らなければならないわね。それは分かるわ。
だけど、どうやって世界を平和にしていくのよ。どうやって?
世界は5つの国が特別な権力を持っている。たった5つの国の考えで世界は動いてる。それでどうやって平和な世界にしていくというのよ?それが正義だなんて、いったい誰が認めるの?ルワンダは資源がないから誰も助けに来なかった。正義ではなく政治でしょ。損得で動くんでしょ。
あなた、どこの国のジャーナリストなの?日本?じゃあ、日本でこのことを問題提起してよ。お願いだから、このことを話し合ってよ」 (1月27日 ルワンダ、ニャマタ)

 

補足:南アフリカのヨハネスブルグにいる。ノルウェーからずっと旅をともにしてきたPCがブルンジ以降壊れていたため、文章の作成およびWebisiteの更新ができない状態が続いていた。時おり別のPCから更新をしようとしたのだが、セキュリティが強く編集ページに入れなかった。この街で日本人の友人がPCを貸与してくれたため、何とか文章を作成し、更新が可能となった。明日30日、僕はこの街を出て、最終目的地の喜望峰を目指す。中継地は、レソト、およびステレンボシュ。その他はいつも通り、野宿である。

この投稿は、この旅最大のテーマであったルワンダジェノサイドの取材をまとめたものである。能力不足と怠惰な性格により、考察までは完成しておらず、それはいずれまとめて公開する。

旅は残り1ヶ月。喜望峰まで約2300kmである。

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