A Generalization of Journey (旅の総括)

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Description

[ 総括 ]

この旅は2011年11月28日に始まった。自転車による世界一周の第2ステージ、ヨーロッパ・アフリカ縦断である。
あの日から3年6ヶ月と4日(1267日目)を経て、僕は最終目的地の喜望峰に到達した。自転車の全走行距離43,780.16km、総移動距離51,582.5km。
北南米と比べれば、今回の自然条件はさほど厳しい記録には達しなかった。厳冬期であっても北欧はアラスカやカナダより断然暖かく、アフリカも数値上の暑さにおいてはアリゾナやアタカマの砂漠に及ばない。正確にいえば厳しい場所もあるにはあったが、そのような場所を通ることが、今回はルート上及び情勢上、難しかったということでもある。
最低気温-32.5℃(フィンランド)、最高気温45.9 ℃(モーリタニア‐いずれも日陰、地上80cmでの計測)。気温や標高、風雨に関しては甘くはなかったものの最高記録を更新するには至っていない。しかし、治安、衛生面、疾病の危険性や路面状況の劣悪さなどを加味すると、この旅も間違いなく過酷だった。

20代半ばまでの旅は極限の世界で限界に挑む「自分」が大きなテーマだったが、今回の旅は「人間」がまずは先に来た。とりわけアフリカを走っていて苦しかったのは体力面もあったが、人間の負の現実を直視する機会が多かったからである。
腕を切断されたシエラレオネや、マチェーテで殺されていったルワンダの人々。西サハラの地雷原、エチオピアや南スーダン国境の難民たち、ブルンジの大統領選や南アフリカの人種間の溝。そしてどこにでもある貧困や犯罪、暴力、紛争の片鱗。

そこで僕が見てきたものは、人間やこの世界の善なる部分ではなく、その対極にある負の部分だった。とりわけ戦争状態では、人間はある一線を超えるとどこまでも残虐になれてしまう存在であることを肌で感じた。また凄惨な行為を見ておきながら人間は果てしなく無関心でいられるとも知った。
僕たちの心の闇には何があるのか。人間が人間であるための「人間の条件」とは何か。それを考えてみたかった。

 

~人間の条件~

西アフリカのシエラレオネは長く内戦が続き、その間に人々の手足を生きたまま切断するという行為が発生した。取材時、腕の切断面や潰された両目に指を這わせ、傷の奥にあった人間の行為を深々と想像した。
人間の心の闇にあるものを見ようとするとき、想像力こそ闇を覗く視力である。色や音や臭い、味、触感を証言に加えてリアルにイメージしていった。それはとてつもない苦痛と疲労を伴なった(それでも被害者の気持ちを知ることはできない)が、被害者についてはこの総括では言及せず、この項では一般人が非人間的存在になる可能性と、そこに行くのを踏みとどめる防波堤について考えてみる。

東アフリカのルワンダでは1994年にジェノサイドが発生し、多数派のフツ族が少数派のツチ族をマチェーテや槍、鍬などといった道具で襲い、約100日間で80万人が殺されたとされる。生存者たちの証言から加害者の様子を聞き、証言を紐解きながら加害者の動向を調べていると、これまでに見てきた紛争の加害者たちが脳裏に次々と浮かんできた。

アウシュヴィッツでもサラエヴォでも、シエラレオネやリベリアやルワンダでも、僕は加害者の中に普通の、僕たちと何ら変わらない人間像をいつも見つけた。
彼らの持っていた家族への愛情。仲間に対する思いやり。強いものへの従順さと忠誠心。思考の停止と自由の放棄による安楽。非人間的であっても大きな流れに抗えない弱さ。生きることへの不安、恐れ。すべて、多くの一般人が持っているものだった。
一部を除き、加害者はただ自分たちの生活を守りたかっただけだと僕は思う。家族や仲間との日常を守りたかっただけだ。特別に非人間的な殺人者が最初からそこにいたわけではなく、むしろまったく普通の人間がある過程を経て殺人者に変わっていったのだと解釈する。

人間の心の闇にあるドロドロとした得体の知れない何か。そこを刺激されると人間は一気に変貌する。例えば、自分たちの生活がこれから破たんしていくかもしれない予感。家庭が崩壊するかもしれない予感。肉体的精神的苦痛を与えられるかもしれない予感。それが愛するものにも及ぶかもしれない予感。予感は「不安」や「恐れ」である。
僕には、この不安や恐れが、あるとき人々の心の闇で湿り気を帯びムクリと頭をもたげ、入道雲のように急激に膨らんで闇を満たしていく光景が観える。黒い予感が闇から明るく白い日常に飛び出して人間を支配するとき、人の正気は既に失われている。ジェノサイドが起こったのは、彼らがフツ族だったからではない。アフリカの黒人だったからではない。野蛮だったからでも貧しかったからでもない。人間の基本は何も変わらない。同じ境遇化であれば、殺人者だったのはこの私である。

ナチスもセルビア軍もシエラレオネのRUFやルワンダのインテラハムウェも、野蛮で残虐で悪魔のような、僕たちとは遠くかけ離れた恐ろしい存在、ではなかったのだ。もしも理解がそこで終わるなら、悲劇は形を変えて再び繰り返される懸念を僕は持つ。なぜなら歴史を学ぶ意味は、犯罪者にすべての罪を着せて自分たちは理性や非加害の側にいると錯覚し安堵することではなく、自らも犯罪者(もしくは被害者)になる可能性があることを自覚し、当事者は自分であったかもしれないと自らに置き換える想像と疑似体験にこそあるからだ。それを負の歴史を繰り返さないための歯止めとしなければならない。
弱さや狂気の種をどこかに宿しているのが人間であり、いつでも加害者になる危険性を秘めているというその自覚こそ重要である。
加害者たちは間違いなく普通の人間であり、私たちの親であり、先祖であり、その血を受け継いでいるのがこの「私」だと僕は思う。古今東西を問わず、権力者たちは大衆の心理やその習性をよく知っている。別の角度からいえば、そこを突かれても動じない人間になることが人間の条件を貫く命題だろう。

人間を放棄しないための、人間であり続けるための条件。
それは、自由であること。
思考を停止しないこと。
弱い立場の存在に寄り添えること。
一人の命に尊厳を持つこと。

「人間の条件」を、いまの僕はそう定義する。

平和は、他者と共生できるか、すべてそこにかかっている。異民族、異人種、異文化、他国籍、他宗教。自分とは異なる考えや生き方の人間を、どうすればお互いに受け止めていくことができるか、住み分けができるのか。僕たち世代の課題だ。

 

~幸せの条件~

“夢を夢のままに終わらせず、夢の実現に向かって努力することが生きることなんだ”という言葉を僕は幼少の頃より聞いて育った。夢が僕の人生に大きな影響を持っているのはそのためである。
2008年の北南米から僕は夢を集めてきた。夢は欲望や野心と違い、周囲の人にも希望や活力や光をもたらす力がある。
「お母さんとお買い物」「真っ赤な部屋」「大学合格」「お金落ち」「ステキな恋人」「学校に行きたい」「神に一生を捧げる」「真理を知ること」…………
たくさんの夢があったけれど、北南米、ヨーロッパ、アフリカ、どの大陸においても共通する最も多かった夢がある。
それは “ 家族や友人たちが健康で幸せに暮らすこと ” というものだった。気取らない、いたって地味で、最も大切な夢だと思う。

今までに夢を聞いてきたのは1000人足らずだが、その何倍もの人と接してきて、世界のほとんどの人は同じような夢を心のどこかに持っているのではないかと考えるようになった。誰かを攻撃して裕福になったり、自分だけ富を独占することなど、多くの人は望んでいないものなのだと。
それぞれが自分と近しい人たちのささやかな幸せを願って暮らしていくなら争いは起こらないはずなのだが、争いがこの世から消えたことはない。幸せとは、ややもするとこう言えるかもしれない。自分だけの幸せや限度を知らない幸せが、いつも争いを引き起こすと。

幸せについて考えることは、旅の一貫したテーマである。自分なりの答えは北南米で出ているので今回はその確認をしながらの旅だったが、ここでもう一度、幸せとは何か、幸せを求めることが本当に争いにつながるのかという「幸せの条件」について考えてみる。

「人間の条件」の項で前述した加害者たち。少なくともはじめ彼らは、自分たちの生活を守りたかっただけだと僕は書いた。
人間は幸せを望んで生きている。それもおそらくはささやかな日常の幸せである。不幸せを望む人などいないだろう。しかしその気持ちがあるときある媒介を経て、それぞれの幸せを守るために他者の幸せを奪い踏みにじっていくことにつながるとも取れるのである。
幸せとは何だろう。自分の幸せと他者の幸せは共存不可能なのか。

僕は幸せを以下のように仮定し、人々と交わり確認を続けてきた。
① 幸せは人間が社会的存在だからこそ生まれた感情である。周囲に人間がいて初めて生まれる感情である。生まれてからずっと一人なら、この感情は育たない。
② 誰かと比較するのは安堵であり幸せとは呼ばない。
③ 幸せは感受性の遮断ではない。感受性が豊かでなければ幸せは感じられない。
④ 自分の幸せが他人の不幸になることは決してない。
⑤ 欲望の充足と幸せは同義ではない。
⑥ 命が危険にさらされていない限り、不幸と思う多くは不満と呼ばれるものである。
⑦ 幸せは奪ったり掴み取るものではない。幸せはまず、自ら生み出し発するものである。

7つの仮定に異論はあって然るべきだ。それぞれに幸せの定義は違うだろうから。例えば④自分の幸せが他人の不幸になることは決してない、などには反論が予想される。現代社会では、他人の不幸の上に成り立っている幸せがほとんどではないかと。しかし幸せをどのように定義するかでこれは説明が可能となる。そして幸せの本質は、他人を不幸にするものではないと僕は考えるのである。
欲望の充足が幸せと同義であるなら、幸せは得ても得ても、得れば得るほど空腹になっていく代物である。欲望を満たしても、それは根本的な自分の存在を満たすことにはつながらないからだ。
幸せは「生まれてきてよかった」と思える状態、自分の存在を心の底から満たしてくれるもの、である。欲望の充足がそのまま幸せではない。生命を維持できていることを前提として、それができれば誰もが幸せになれるという「幸せの条件」を僕は次のように定義する。

“幸せとは、人を幸せにすることである”

欲望の充足による幸福感もその他さまざまな幸福感も、すべてこの土台の上で成り立っている。人間が社会的存在である以上、心の安泰はそこで生まれるからである(人と関わることを嫌い、大自然の中にたった一人でいることに幸せを感じる人もいるだろうが、紙幅の関係上、ここではその解説は省略する)。
幸せをもっと噛み砕いて説明すれば、幸せは「命の尊厳」とほぼ等しい。自分の命と他の命に尊厳をもって接するとき、そこを始点として、人は幸せを感じていくのである。

僕が出逢ってきた人々は、国籍も民族も人種も文化も宗教も違ったが「家族や友人たちの健康と幸せ」という同じ夢を持っていた。そして彼ら彼女らの多くが、その後に続けて書いたもうひとつの夢は「世界が平和に、人々が幸せになりますように」である。

「人間の条件」と「幸せの条件」
以上の二つは、今後も僕の生き方の中心にそびえる主題である。最後に二つは密接につながっていることを付け加える。

 

~旅とは~

大学を卒業してからの10年間を旅に費やしてきた。その間に世界は年々複雑化し、混沌を極め、暴力が支配し、憎しみと悲しみに覆われている。殺されては殺し返すという負の連鎖は、人間が聖人でない以上続いていき、世界はこれからも暴力が幅を利かすだろう。理想は片隅に追いやられ、暴力を肯定するものが現実主義と呼ばれて力を持ち、争いの種を世界に蒔いていく権力者とその構造がいつの時代もどこの国でも見受けられた。人間の負の現実を知れば知るほど諦観や無力さを感じたりもした。
だが、希望とは創っていくものである。
我が子に微笑むことも、愛する人への抱擁も、遠い友の不幸を悲しむことも、見知らぬ人の幸せを祈ることも、それらすべてを希望といい、自分の足下から創っていくべきものである。

“いついかなるときでも、自分と人類を普遍的に見つめる眼を養うこと”
それが哲学だと教わってきた。自分のことで精一杯の僕はいつもそのこと忘れがちだったが、旅の途上、時折そのことを思い出しては周囲の人を見渡した。すると目の前にいる人と、地平線の向こう側にいる別の友と、日本の友人たちが、一つの顔に溶けていた。友の顔が透けて見える目の前の人が、どうか幸せであるようにと祈るとき、僕はいつも穏やかになれた。
この旅で、人間の基本は何も変わらないということを学んだ。10年でそれくらいしか分からなかった。寝ては起き、食べては飲み、学び働き、嬉しければ笑い、悲しければ泣き、一人になりたかったり寂しがってみたり、喧嘩して仲直りして、完全なる善人も全くの悪人もおらず、善と悪の可能性を体内に孕み、みなそれぞれに悩みを抱え、それぞれの幸せを望みながら生きていた。そんなとき、僕は人間を愛おしく思った。

世界を旅する意義は、人間の異質性と同質性を知ることにある。それによって世界の深さと浅さを知ることができるだろう。世界は広く狭く、複雑で単純だ。そして僕たち人間は一人ひとりすべて違い、みな同じであるという真実と、命は毎日変化し、けれども何も変わらないという真理を、旅は教えてくれるのである。

旅とは日々を好きになることである。
生きていく苦しさを知りながら人生を好きになることであり、人間の不完全さを認めながら人間を好きになることであり、自分の弱さを受け入れて自分を好きになることである。
だから私たちの一生を旅という。一生は旅なのだ。

 

~おわりに~

この旅は一人の旅ではありませんでした。いつも多くの人とともにあり、僕は現地の人々が、次の人へ、次の人へと手渡しをしてくれるその掌の上を自転車で走ったに過ぎません。常に守られていたわけです。そのことが心の平穏と余裕にどれほど貢献していたか知れません。
旅のルートはできる限り厳しい場所を選んできました。理由のひとつは圧倒的な孤独が僕には必要だったからです。逆説的ですが、携帯電話もインターネットもない、周囲に誰一人としていない場所では、一人になるほど孤独を感じなくなっていくのです。情報化社会の中で人が孤独になっていくのとは反対でした。逢ったことのない祖先に思いを巡らし、心に住んでいる周囲の人々を思い返すとき、自分がどれほど恵まれた存在か考えざるを得ませんでした。そのとき僕は豊かになったものです。
恵まれた環境にいる人間は何らかの使命を背負っている気がします。その使命の向こう側にどうやら僕にとっての幸せがあるようです。

上記した人間と幸せの条件に関することは、現段階での僕の考えですが、それは変わり得ることですし、またそれを持っていたとしても、常につよく人にやさしくいられるわけではありません。傲慢で我儘で攻撃的で臆病で、やさしくあろうとしても人を傷つけ、現実から逃げては行動に移せず、不安や恐れに流され長いものに巻かれるというのが僕の本質です。僕は人間の条件を前に悩み、幸せの条件を満たそうともがきながら、一生未熟なままで終わるでしょう。

ヨーロッパのまとめとして、2013年の9月に「パイオニアの育成」と「すべての責任は自分にある」ことを書きました。それらを含め、この総括で伝えたいのは、どのような世界にしていくのかは、すべて私たちの生き方次第だということです。子どもが夢を語らないなら私たちが夢を語らなくてはならないし、希望が乾きつつある世界なら私たちが希望を生み出していくしかないのです。想いは暴力の前では無力かもしれません。それでも夢を持ち希望を創り続けていくのも人間です。ことさら口に出して言わずとも、子どもたちにどのような背中を見せるのか、その自分なりの生き方こそ、私たち一人ひとりに与えられた役割だと思います。

世界一周の旅は、それ自体が僕の夢ではありません。僕が目指す最も大きな夢へのひとつの手段であり一過程です。世界で多くの人が口にした夢を僕も体内に持つものであり、旅へ注いできた情熱を今後はそちらに移していきたいと考えています。
僕はまだ何も成し遂げてはいません。スタート地点にすら立ってはいません。この旅が、社会の中でそれなりの価値や意味を持ち始めるのは、今後、この旅をどう生かすかそれによるでしょう。大きなことはできませんが、いつでもどこにいても、自分にできるわずかなことをできる範囲で行っていくだけです。

旅の途上で出逢い、現地で僕を支え守り運んでくれた友人たちと、日本で支え見守り帰りを待っていてくれたすべての人に感謝し、お礼を申し上げます。またどこかでお逢いできますように。
未完の記事や原稿、また必要だと判断した文章は、この投稿以後も出来上がり次第公開してまいります。

 

6月20日、僕は無事、下関の実家に帰着しました。
その日をもって、3年7ヵ月、4万4千キロに及んだ「ヨーロッパ・アフリカ縦断」の旅は、その全行程を終了いたしました。
応援、ありがとうございました。

西 野 旅 峰

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