『風の大陸から』第5話

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Description

事故直後、僕の意識を占めていたのは「生きている」という絶対的な安堵だった。自分の命があったこと。それさえ確認できれば後はなるようにしかならないと流れに身を任せた。僕はこの流れを信頼している。どこに行き着いても、そこが僕にとって行くべきところだと思うから。
山羊農家であるマリアンナとビダールは事故で傷ついた僕を受け入れてくれた。一昨日、野宿の許可をもらおうとこの家の玄関を叩いたことから親しくなっていたのだ。心やさしい家族と過ごし僕は快方に向かった。
12月15日、夜。僕たちは小さな町のクリスマスコンサートに足を運んだ。1654年建造のキビックナ教会は透き通った夜空に尖塔が美しい。事故の10分前、僕はこの教会を横目に走り抜けて行った。それがいま賛美歌を聴きにこの家族と教会へ続く石畳を歩いている。古びた扉を開けるとギギィと軋んで、それが合図だったかのように賛美歌が始まった。
タキシードではなくくたびれたジーンズ姿の農夫が歌っている。制服ではなく手製のセーターを纏った老婦人が口ずさむ。聞き慣れない歌が親しみ深く心を打った。今日の午後、山羊小屋でマリアンナと話したことを思い出した。
「わたし山羊が特に好きなの!」
山羊たちの頭を撫でながら幸せいっぱいの面持ちで彼女は言った。
「本当にいい仕事を見つけられたら、私たちの人生は幸せよね」
教会という場がそうさせたのだろうか、その言葉はお金を稼ぐ「仕事」ではなく人生の「役割」と訳す方が彼女の意に近いかもしれないと僕は勝手に想像した。一生のうちで自分の役割を見つけられたら幸せになる。彼女はそう言いたかったのではないか。果たして、お世話になりっぱなしの僕にはどんな仕事があるだろう。歌いながら、黒服の上品な老婆がコホッと小さく咳をして賛美歌がいっそう身近になった。

 

この世で、出逢える人とすれ違う人。それを決めるのは自分のようで、時として、私を超えた何かの流れがあるように感じられることがある。事故に遭ったのも、ここへ来ることになったのも、僕の意図とは無関係だった。心いっぱい旅をしていれば、川に浮かぶ一枚の葉のごとく、もがきながらもどこかへと運ばれて、行き着いた場所にきっと必要な人や場所がある。マリアンナの言う仕事も、そんな河岸(かし)にあるはずだ。人と人が出逢うふとした一瞬は、だからとても不思議に満ちている。
教会を出ると満天の夜空に驚くほどの星が降っていた。明日はどんな旅という日になるだろう。

「風の大陸」は山口新聞の紙面で連載中です。

山口新聞
http://www.minato-yamaguchi.co.jp/yama/

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