How to bring up ?

How to bring up ? Large Image

Description

I am interested in some of Educational system in foreign countries.
The other day I went to Waldorf Steiner Educational school and kindergarten in Munich.
About “Waldorf Steiner Education”, I omit.
I think early childhood education is the most important.
So to say, from how to deliver to how to bring up child before elementary school, is important.
It can’t leave this matter to other persons.
Every children have nice smile and good heart.
I feel this children are our generation’s children.
Not only German’s.
Anyway this trip is real study for me.
Vielen Dank !

 

ドイツのミュンヘンで、シュタイナー学校と幼稚園を訪れた。DSC_0912

もちろん日本といろいろ違う点はあるけれど、先生たちの、子どもたちに向ける眼差しの温かさはどこでも同じだ。

シュタイナー教育の話は割愛して、別のテーマをひとつ。

 

学校のお昼の時間になり、僕は生徒たちと先生方に混じって給食を食べていた。どんな給食であったかを記録に残そうとカメラを構えて写真を撮ると、何人かの先生が笑い、初老のヒゲを生やした先生が「日本人はいつでも写真を撮る」とボソッと言った。僕も笑いながら、「いやぁこんなに美味しそうなものは記録に残しておかないと!」と答えて更に笑いを誘った。

給食を食べながら話をしながら頭の隅で考えていたのは、初老の先生が口にした「日本人は」という言葉である。

日本人はメガネをかけていて出っ歯でカメラを下げているとか、日本人は遊びもせず仕事ばかりしているとか、日本人は真面目で時間を守るけれど融通が利かないとか、世界では日本人がこのように言われることがある。一部は事実だろうが、一部では間違いである。すべての日本人がそうではない。

ヒゲの先生はジョークとユーモアを交えて「日本人は……」という言葉をおっしゃったのだし、そのこと自体はとても小さなことで別段気にするようなことではないが、子どもたちの前では注意をせねばならないことかもしれない。

“日本人はいつでもどこでも写真を撮る”

その中にはほんの僅かながら、相手を笑いものにするニュアンスが含まれていると僕には感じられる。そしてそれは、目の前の人物のことを知る努力をしていないということなのだと思う。

どこの企業に勤めている人だから、どういう肩書きの人だから、などというのと同じように、どこの国の人だからというフィルターをかけると、目の前の相手を知る努力をしなくてすむ。そして時には(もしかしたら多くの場合)、そのフィルターは相手を見下す視点につながっていく。

さて、これは逆バージョン。

海外の人はサービスが悪いとか味音痴だとか不親切であるとか礼儀を知らないとか、ところどころで出会う日本人から同じようなことを聞く。それは本当だろうか。どこかでフィルターをかけたりそう信じ込ませられてはいないだろうか。その言葉の奥底に、些細ながら相手を見下したニュアンスもほのみえる。大抵その場合、何らかの不安を抱えていたり、現地の人々のいいところを認められる心の余裕がなかったり、合わせ鏡であるときがほとんどだ。僕は上っ面の偽善的微笑みでレジに突入し、高確率で店員の笑顔に出逢っている(ときおり撃沈もするけれど)。相手のサービスや対応を非難する前に、自分を省みる所作も肝要だ。

もちろん商品やお釣りを投げるようにして渡したり、サービスのわるいお店だってあるだろうが、それは目の前の人がそうであるというだけで、ほかのお店や人々がそうというわけではない。まして何千何万といる人々のうちのたった数人で、この国の人は、と決め付けてはいけないのだと思う。嬉しい接客やおいしい料理や親切で礼儀正しい海外の人々を僕はたくさん知っている。そして、そうでない人々やお店があることも知っている。大切なのは、目の前の人がどうであるかということ。

どこの国の人だからというフィルターが無用な誤解や偏見、争いを生むときがある。日系企業店舗の破壊などもそれにあたるし、在日外国人への嫌がらせなどもそう。

国籍、性別、肩書きなどのフィルターは少し置いて、目の前の人がどういう人なのか知ろうとすること。学校ではどんなカリキュラムを実践しているかも重要だが、大人の与えたフィルターを外させる作業、子どもたち自身の感性で世界を捉えさせていく指導も大切なのではないかと思う。

「常識を疑うこと。本当にそうかい?自分の目で見て肌で感じてそう思ったのかい?自分の判断に責任を持つんだ」

子どもたちに手を振りながら学校を後にした。ヒゲの先生も旅の安全を祈ってくれた。不要なフィルターをかけて人や世界を見ていないだろうかと考えつつ、雪の積もった街を自転車で帰路に着く。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

© Copyrights 2024 NISHINORyoo.com

Powered by WordPress · Theme by Satrya