『風の大陸から』第33話

『風の大陸から』第33話 Large Image

Description

ある日、幸福な日々から突如強制的に貨車に詰め込まれた人々は、立ち尽くしのまま途中下車を許されず、悲惨な日常へと帰結する終着駅に運ばれた。出迎えていたのは親類縁者ではない。当時、この地を占領していたナチスである。

ポーランド南部にある小さな街オシフィエンチムはドイツ語でアウシュヴィッツと呼ばれ、第二次世界大戦中、「民族浄化」と称し多くの人の命が奪われていた。

2月12、13日。僕は凍てつく収容所内を歩いていた。

三重の鉄条網の向こうに澱んだコンクリートの壁があり、囚人たちを見下ろした監視塔がそびえていた。囚人用のバラック。何枚もの囚人たちの写真。無言の靴やトランクや髪の毛の山。髑髏(どくろ)のマークのチクロンBの空き缶。

射殺される直前の泣き叫ぶ男性の写真に父を重ねる。子を庇いもうすぐ撃たれる運命の女性に母を投影する。暴行をされた若い女性。疲弊仕切った老人。人体実験に使われた幼子。全ての人に近しい人を重ねていく。

ドイツ人はここに来たら辛いだろうなと何度も思う。ナチス・ドイツはここでは完全な「悪」だからだ。無論ナチスの犯罪に擁護できる部分などありはしない。けれども彼らを、僕たちとは全くかけ離れた存在、僕たちがどう変化しても彼らのようになることはあり得ない「悪」だと考えるなら、惨状は形を変えて繰り返される予感を僕は持つ。

一枚の写真を思い出している。犬に餌をやるナチス親衛隊の青年の写真。彼はその瞬間だけを切り取れば穏やかな顔をしていた。たぶんその青年は、家族や友人やペットには優しく、真面目で誠実で忠実に、国家や家族を守るために命令に従ったのだと想像した。

彼は、僕とかけ離れた悪魔のような存在か?

素直かつ真面目で、周囲の大人に認められることを喜びとし、正義感も使命感も強い、そんな「よい子」が当時のドイツの一般家庭に生まれていたなら、ほぼ間違いなくヒトラーユーゲントに志願しているだろう。

おそらく現代の多くの人の心にも、ナチスや当時のナチスを支持したドイツ人と同じく、「人間存在」や「生きる」ということへの不安と連動した、ヒトラーの細胞とでもいうべき狂気の可能性が潜んでいる。ヒトラーは、私たちの、途方もなく遠いかもしれないけれども、影の分身。自らの中にヒトラーの細胞が眠っていることを自覚しない人々が、今日も世界のどこかで幸福から不幸駅へ続く線路をせっせと作り続けている。

固い雪が首筋に当たりハッとした。今日は終日雪だという予報を僕は思い出した。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

© Copyrights 2024 NISHINORyoo.com

Powered by WordPress · Theme by Satrya