Description
ポーランドのクラクフでは、昨年10月、デンマークのキャンプ場で知り合ったグラズィーナという女性の家でご厄介になっていた。彼女は北欧が好きで出稼ぎ場所としていつもノルウェーやデンマークを選んでいる。そこではキャンプ場の清掃係をしていて、当時、膝を痛めてヘタレこんでいた僕と知り合ったのだ。
中心地に近い古いアパートの2階にある一番奥が彼女の家だった。
「ごめんなさい。家が狭くて古くて本当に恥ずかしい」
灯点し頃にぽっと浮かんだ橙色の街灯。その小さく暖かい部屋の窓から見下ろして、僕は彼女の淹れた熱い紅茶を飲んだ。
それからの一週間、彼女は母のように世話をしてくれた。皿洗いも掃除も断り「私がリオに望んでいるのは、日本の実家のようにリラックスしてハッピーになってくれることだけよ」というのだった。
最後の夜、グラズィーナは僕に様々な土産を持たせてくれた。日本語で書かれた『クラクフ』の本、僕の両親のための手紙と贈り物、そして大量の食料と餞別を僕のために準備した。
そして、コンソメスープの素を僕に勧めた。「寒い夜にこれを飲むと温まるから」と言って。僕はそのコンソメスープの素を断った。
ポーランドとスロヴァキア国境には、カルパティア山脈の一系、最高峰1724mを有するベスキディ山脈が横たわり、僕が向かう頃には激しい降雪が予想され、そのとき僕は1gでも荷を減らしたい一心で荷造りに夢中になっていた。コンソメスープの素一箱を抱えたグラズィーナは、天気予報を見て心配しキッチンの棚にあった20個入り200gのそれを僕に勧めてくれたのだ。彼女は遠慮がちに二度勧め、僕は二度とも重量を理由に断った。
2月20日、僕はクラクフを出発する。
街を後にしてから、僕の心には何とも言えない重さがつきまとっていた。それが10gのコンソメスープの素であることに僕は気付いていた。
なぜあのとき、グラズィーナの気持ちを受け取って上げられなかったのだろう。一箱は無理でも一つ二つ受け取ったって重さは大して変わらなかったのに。
「ジェンクーイェ(ありがとう)。きっとテントの中でグラズィーナのこと思い出すよ」
なぜそう言えなかったのだろう。いつもいつも僕は自分のことばかり。何のために旅をしているんだ。
たった10gを受け取ることのできなかった、そこが僕の限界であり、懐の浅さなのだと思いながら、僕は激しい降雪の山脈を超えていった。
10gのコンソメスープの素が今も心を圧している。その圧力で懐を深めていきたい。