Life and will

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Description

「信念」に費やしてきた時間は、つややかな黒髪に僅かながら白いものが混じり始めていることから伺えた。
眼差しに力があり、言葉に厚みがあった。僕が好きなのは、彼女の気性の荒さ、芯の強さ、野生感、パッション。おしとやか、という女性ではない。しかしその荒さや張りや野生感の隙間に、柔らかいものがある。

ルワンダで義肢を作る日本人女性がいることを、日本でこの国を調べているときに知った。
6年間の会社勤めを辞め、東アフリカ旅行中に後のパートナーとなるルワンダ人男性と出逢い、ルワンダ虐殺や障害者の状況を知り、義肢装具士になることを決意。92年地元神奈川の義肢製作所に弟子入り、修行。96年、夫とともにルワンダ、キガリにてムリンディ・ジャパン・ワンラブ・プロジェクト(Mulindi Japan One Love Project)を設立。女性の名は、ルダシングワ(吉田)真美。

1月22日、午前10時。少し肌寒い日だった。
キガリ中心部から東を走る谷沿いの義肢製作の事務所と作業所。先頭に立って彼女は案内を始めた。敷地内に東日本大震災の慰霊碑。ルワンダの人たちの寄付でできたという。

作業場では背の高い2人の男性が石膏を削っていた。
「いま実際に作る技術があるのはこの2人ね。言葉はスワヒリ語。彼らはケニアに行ってたから」
夫との会話もそれだ。パートナーのガテラ氏はルワンダ人だがルワンダ紛争を避けるためケニアに逃れ、そこで後に真美さんと出逢うことになる。

シュッシュッという、2人の職人が石膏を削る音が微かに聞える。5歳の男の子用を作っている。成長の早い子どもの義肢は来年にはもう体に合わなくなるだろう。
「義肢はできるだけ無料で提供するようにしてるの。お金のある人からは少しもらうけどね」
いまのところ、資金は日本の支援者からで成り立っているのだ。政府の補助を受けようと申請中だが、これがなかなか難しいと話した。

床に一枚のポスターが置いてあった。
「それね、日本の広告会社が作ってくれたのよ」
何年も前、ポスターを作らせてくれという申し出を受けた。ありがたく思いお願いをした。しかしできたのは1枚だけ。内容には間違いがあった。どこまで本気だったのか、広告会社の姿勢が問われる。さらにその会社はワンラブ・プロジェクトのスポンサーや支援者の名簿をくれといってきた。それは断った。
広告会社は実績を作りたかったのだろうか。名が知れてくると純粋な善意以外の様々な思惑がやってきて、ときにそれで時間を取られることもある。
一つ一つの工具や型を説明してくれた後、僕たちは石膏を削る音を背に作業所を後にした。

ここの敷地内にはゲストハウスやレストランも併設され、その売り上げもこのプロジェクトの運営資金となる。作業所から場所を変え、Barの庭に置かれた椅子に腰掛けて彼女は丁寧に答えていく。

日本の職人とアフリカの職人との違い、この活動を長く続けてこられたモチベーションは何か、僕はノートを広げながら質問した。
「日本の職人とアフリカの職人。どっちも職人なんだけど、仕事に対する姿勢は日本の方が正しい…..というか、分かりやすいね。その姿勢に従いたいと思わせるものがある。
このプロジェクトが目指しているのは、私たちが死んだ後もここが続いていくこと。意志を受け継いでくれる人が現れることね。一歩引いても経営をがうまくいって、私たちは海外で広報をやりたいんだよね。でも、人間を探すのが一番難しい。
この仕事を長年続けてこられたのは、ガテラの存在。ガテラは信念を持ってる。あとプロジェクトをサポートしてくれるたくさんの人たちがいること。本当にありがたいよ。それはプレッシャーでもあるけどね」
無人島にみっつ持っていけるものがあるとするなら、ガテラ(夫)とネコとメガネ。のろけてごめんと彼女は言った。

全然関係のないおしゃべりも交えながら、僕たちは座って話を続けた。周りにはほとんど誰もおらず、ときどき駐車場の向こうで箒を持った女性の姿が見えるだけである。
そうそう、聞いておかないといけないことがありましたと僕は言った。アフリカの男性と日本人の男性と、どこが一番違いますか。日本の男性に足りないもの。これは軟弱な日本人の男として是非とも参考にしなければならない問いであり、僕はペンを持ち直し耳を傾けた。
彼女は迷うことなく「生き延びようとする力」と答えた。
分かる気がする。見た目は細く清潔でオシャレかもしれない日本の若い僕ら世代。でも、都会を出て荒野に入ったとき、僕らには男としての生きる力は足りないかもしれない。いやサバイバルのスキルの問題ではなく、生き延びようとする、体内から湧き出てくる生命力のことを、きっと彼女は言っているのだ。何もかも揃っている日本社会で、僕らは男として必要なものを失ってはいないか。
アフリカと日本の女性についてもそれは同様だと思う。日本ではなかなか出逢えない、アフリカの女性の生命力に堪らなく惹かれてしまうことがよくあるから。

納得しつつ、僕は問いを変えた。
遠いアフリカから、いまの日本はどのように見えるのか。
「あまりいい方向に向かってはいないと思う。みんな去勢されちゃってる。怖くて何もいえない社会になっちゃってる。住みづらいよ、いまの日本は。私、ネットがよくないと思うんだ。一瞬で情報が広がって独り歩きするでしょ。人間の感覚を衰えさせると思うんだ」
風が吹いて頭上から針葉樹の枯葉が降りかかる。それを頭に乗っけたまま
「最初来たときはね、まだ全然日本人がいなくて、少なくて、どうしてもわたしを通してみんな日本を見るでしょ。だから日本のフラッグ(国旗)を背負ってやっていた。全部自分でやらないといけなかったし、全部ゼロからやってきたわけでしょ、気は強くなったよ」
そういって彼女は笑った。自信と優しさが同居する人の笑い方だ。
「日本人って挨拶と自己紹介が下手だよね。海外で日本人がいたから「こんにちは」っていっても無視するんだもん。そういう訓練ができてないから外交も下手なのかな」

国際協力、国際援助という分野で、日本ができること、または改善点を教えて欲しいと僕は質問を重ねた。彼女の答えに、何か大切なことが含まれているかもしれないと期待して。
「それぞれの立場でみんなやってるわけだから、わたしが偉そうに評価はできないよ。でも日本はお金を持ってる。それはいいことだよね。力だよ。でも、だから上から目線になりがちなんだけど。本当いうとさ、国際協力っていう言葉、あんまり好きじゃないんだよね。みんな言葉に負けちゃってる。気負いすぎ。
JICAの人とかとの違いはあるよ。背後が違う。彼らにはバックがあって、私にはそれがない。だから全部自分で背負わないといけない。
平和のために何をすべきかということと重なるけど、国際協力とかそういう仕事も、まずは違いを受け入れることじゃないかな。国じゃなくて、個人を見ることがとても大切だと思う。立場や背景の違いを認められない人ってたくさんいる。でもそれを認めて、個人を見て付き合っていく方がいいと思うんだ」

アフリカ、ルワンダでの障がい者の社会的位置づけと、日本でのそれとの違いはどこにあると思うか。周囲はどのように接し、差別はあるか。

「例えば人通りの多い道のど真ん中に座って障がい者が物乞いをしているとするでしょ。日本だったらきっとみんな避けて行く。アフリカでは蹴る人とか邪魔だという人がいるんだけど、障がい者であろうとなかろうと、それは確かにジャマなんだよ。障がい者だから許す、許さないじゃないんだ。区別はあるよ。差別もある。でも日本より遥かに人間的な扱いなんだよね。アフリカでの障がい者に対する態度は日本よりも健全だと思える。バスの中で目の見えない人がいたら、誰かがスッとエスコートして下ろしてあげる。それがとても自然で、そういうことができるんだよ、こっちの人は」

あるとき日本を代表する某テレビ局に出演した。話の流れで真美さんは「片手落ち」という表現を使ったのだそうだ。すると白い紙が回ってきて、それに「不適切」と書かれていたという。
彼女はそれを障がい者に向けて使ったわけではなく、そもそも片手落ちという表現自体に障がい者を差別する意味はない。だが、日本における障がい者に対する過剰なまでの反応に彼女は驚いた。例えればそれは「触らぬ神に祟りなし」「静かな排除」とでもいうような、ある種の逆差別となり得るかもしれない。

長年義肢を作ってきて、その中で印象に残っているエピソードをひとつ教えて欲しいと僕は訊く。
「50歳くらいの中年のおじさん。両手で杖をついてた人。
最初にね、ここに来た人には義足をもらったらまず何をしたいかということを聞くんだけど、そしたらその男性は、妻と手をつないで歩きたいって。いつも両手がふさがっているからできないの。
そしてね、ついに義足を渡す日が来るでしょ。義足を渡すとまず歩く練習をするんだけど、義足をはめて杖から離れて歩き出すと、妻が横にピタッと寄り添って手を取って一緒に歩き出したんだ。
あれはいい光景だった。そんな小さなことで嬉しくなれるんだと思った。作った者冥利に尽きるよね。
幸せってそんなに難しいことじゃない。小さなことで喜べると気付くよね」
情景を思い浮かべてみる。男性の心情と支える妻の心内と、それを見守る周囲の人々の気持を思い浮かべてみる。僕のイメージだとその場にいた人はみんないい笑顔をしている。ステキな職人技だ。

長時間に及ぶこの取材を、真美さんは楽しんでいるように思われた。それに甘えて僕はとめどなく問いを投げ、難しかったり、答えにくい質問を繰り返した。僕のこの取材は、ワンラブ・プロジェクトではなく、いつの間にか、ルダシングワ真美という女性の生き方の取材になっていた。

芯のある生き方をしている真美さんに惹かれる人は多いだろう。アフリカの小国で、人々のために義足を作り続ける日本人女性。記事としては非常に書きやすいテーマである。彼女をヒロインにすればよいから。
しかし彼女は美化されることを嫌う。美化しようとする臭いを感じ取れば、そのイメージをガタガタに崩そうと彼女はする。

ときどき若い日本人がボランティアをさせて欲しいといってくることがある。どこかでここの話を聞いたのだろう。記事によいことが書いてあったのか。だが、彼女が欲しいのは仕事でのできる人間だ。真美さんもここで働く職人たちも真剣に仕事をしている。後ろ盾は何もない。資金は日本の支援者からで一切無駄にはできない。手を抜くボランティアは、正直、迷惑なだけだ。
彼女はこうも言った。
「もののついでに視察に来る人には腹が立つ。こっちは時間を削って案内をするんだよ。暇つぶしにかまっている暇はないのよね」

彼女の美化をするなという要望に応えて、僕は書いておく。真美さんは決して甘くはない。適当な態度で出かけていっても両手を広げて歓迎してくれるような人ではない。信念を持ち、真剣だからこそ、適当な気持ちで来る人には「なめるなよ」という態度で接してくる。もうひとつ、書いておく。でも、彼女は懐の広いとても優しい女性だと。

もうすぐ雨が降るのだろう。灰色の雲がものすごい早さで空を覆い始めている。僕は最後に夢を訊いた。
「そうね、定食屋やりたい。お惣菜とかパンとか売るの。日本の菓子パンとか流行ると思わない?でしょ!それとね、運動会を開きたいなぁ。ルワンダの人ってスポーツはものすごくマジメでがんばるんだけど、おちゃらけた楽しいのってあんまりしないのよね。障がい者に障害物競走させるとかさ、おもしろそうじゃない。飴拾いとかパン食い競争とかね、ぜったい楽しそうでしょ。楽しませたいんだ。受けを狙ったり笑いを取るのってとても大切だから」
気取らない彼女の性格は気持ちがよかった。

義肢を作る上で最も大切にしていることは、相手が気に入ってくれるものを提供することだと、最初の問いに彼女は答えていた。
「修行しているときにさ、外から見えないところ、手ぇ抜いたことがあるのよ。師匠にそれを指摘された。甘かった。自己満足はダメ。だから見えるところにも、見えないところにも、絶対に手は抜かない」

様々な国の様々な町で、そこに根を張っている日本人と出逢ってきた。彼ら彼女らが何年も何十年もかけて築いてきた「日本人」という信頼。自己満足ではなく、現地の人に受け入れられるようアレンジしながら、見た目も中身も手を抜かずに暮らしてきた人々の生き方。
「日本人だから大丈夫」「日本人なら安心ね」
僕は何度、そういう後ろ盾に救われたことだろう。僕はその人たちが創り上げてきたブランドの上で旅をし、運ばれている。
ルワンダの裕福とはいえない人々が日本の被災に心を痛め、お金を出し合って出来上がった3.11震災の慰霊碑。彼女がいなかったらあの慰霊碑はここにはつくられなかったはずだ。おそらく彼女は意識してはいないが、真美さんの歩いた轍の後から勝手に国際協力や援助といった看板が追いかけてきて、ルワンダやアフリカにおける日本人の立ち位置に貢献している。
彼女はいずれ経営を信頼できる人に任せ、自分はまたつくる側に戻りたいと語った。彼女は日本の誇るべき職人だ。

ワンラブ・プロジェクトの事務所を後にする僕の脳裏に、シュッシュッという石膏を削る音が甦る。それは、彼女がこの国で作ってきたいくつもの義肢であり、それを使う人々の暮らしであり、ルワンダにおける日本人というブランドと、一人の女性が道を切り拓いてきた音でもある。(1月22日 ルワンダ、キガリ)

{お願い}
5月17日から7月下旬まで、真美さんは、夫、ガテラ氏とともに日本に帰国します。主に資金集めを目的とする帰国ですが、そのための講演先を募集しています。彼女の話を、ぜひ聞いてください。ルワンダの話、そこから見た日本、障がい者と非障がい者との溝、福祉、バリアフリーとは何か、さまざま話を聞くことができます。特に学校関係の皆様で子どもたちによい講師をお探しの方がいらっしゃいましたら、是非、この機会に直接ご連絡を取ってみてください。本来、私が中継ぎができればよいのですが、すぐにまた走り出しますので、そうなりますとメールなどに対応できなくなります。ワンラブのウェブサイトと連絡先を以下に載せておきます。その際、西野の記事を見たと一言添えていただければ、話は円滑に進むと思います。ご協力をよろしくお願いいたします。

ムリンディ・ジャパン・ワンラブ・プロジェクト(Mulindi Japan One Love Project)
副代表 ルダシングワ(吉田)真美

Website:http://www.onelove-project.info/
Tel:0476-86-2072
E-mail:info@onelove-project.info

ガテラ・ルダシングワ・エマニュエル

1954年、ルワンダ共和国生まれ。
幼い頃、治療ミスのため右足が麻痺し、障害者の施設で育つ。
1980年代、ルワンダの紛争を避けるためにケニアに逃れ、アフリカ民芸品を卸しながら過ごし、パートナーの吉田真美と出会う。
1994年のルワンダ大虐殺終結後、ルワンダに戻り、1995年大虐殺後のルワンダを調査し、 1996年真美と共にNGOムリンディ・ジャパン・ワンラブ・プロジェクトを設立。
翌年には首都キガリ市に義肢製作所を設け、義肢装具の製作、義肢装具士の育成、障害者スポーツの普及などの活動を進めている。2000年シドニーパラリンピックにルワンダの障害者を参加させた。
2007年にはブルンジの首都ブジュンブラにも義肢製作所を開き、同様の活動を行なっている。
現ルワンダ・ブルンジ事務所代表。

ルダシングワ(吉田)真美

1963年神奈川県茅ヶ崎市生まれ。
英語の専門学校卒業後、約6年間OLをする。
1989年ケニア・ナイロビにあるスワヒリ語学校に半年間留学し、その後東アフリカを旅行中に、パートナーのガテラと出会い、ルワンダ大虐殺やルワンダの障害者の状況を聞き、義肢装具士になることを決意、1992年より横浜の義肢製作所に弟子入りし、修業をする。
1996年ガテラ氏と共にムリンディ・ジャパン・ワンラブ・プロジェクトを設立。
2007年静岡アビリンピック大会(障害者の職業技能を競い合う大会)、2011年ソウルアビリンピック大会などにルワンダの障害者を参加させた。

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