A hard work

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Description

I have finished field work which to make a report about refugees. It was so hot and hard life. It is happiness that all family, friends are still alive. Next year I want to back to refugee settlement in Uganda again. Be kind to your family. 24th, I am going back to Japan.

 

連日35℃以上の酷暑の中、北部の難民居住地を歩いていた。暑さにも寒さにも、適応能力は相応にあるはずだったが、したたか乾燥地帯の太陽にやり込められ毎日の疲労は激しかつた。

夜半でも室温は30℃、どちらに寝返りを打っても砂の臭いが鼻を突いた。あぁどこかで同じような体験をしたなとデジャビュを覚え、それが南米4,000m以上の高地、アンデスであることを思い出す。気温こそ違え、砂の臭いと息苦しさ(アンデスは空気が薄く、アフリカは防犯上、ドアを開けて寝られない)、鼻奥の違和感まで似ていた。もちろん向こうは風の音がなくなれば無音の世界で、こちらは毎日きっちり午前4時まで、隣のバーから大音量の音楽が垂れ流しだったのだが。

取材は、初めて訪れた難民居住地で友人ができたこと、それがすべての扉を開いたといってよい。右も左も分からない異邦者が居住地に分け入り人々に話を聞いて回れたのは、難民の友人たちが助けてくれたからである。それがどんな能力や肩書や人脈より力だった。何の後ろ盾も支援もない僕は、こういう現地の友人たちの協力がなければ何も成し得なかっただろう。感謝しかない。

ブルンジの友人とはカンパラで2回逢うことができた。1回目はただ再会を喜びインタビューは行わなかったが、その次は詳しい話を聞かせてくれた。僕がルワンダで出逢ったときは学生だったのだが、友人はその後ジャーナリストとして働いていたことから、監視、脅迫、暴行を加えられ、居場所を転々、いまも危険な状況に置かれていることに変わりはない。ブルンジではジャーナリストの失踪が相次いでおり、友人は顔写真やその他の個人情報を掲載せず、偽名を使うことで公表の許可を与えてくれている。

シエラレオネで取材した女の子を思い出す。夢は?という問いに彼女は「昔はジャーナリストになることが夢でした。でも今は違います。ジャーナリストは殺されるから」と答えている。

危険をいかに回避し、無事に帰るかが、どんなニュースをつかみ取るかより遥かに重要なことである。皆、死ぬために行くわけではない。生きて帰るために行くわけである。旅と同じだ。

様々な思いをザックに詰めて、24日、ウガンダを後にする。この街は少しずつ、雨季へと入り始めている。

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